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NO.2252 一筆啓上 日本一短い手紙 「いい子が生まれてくれて、ありがとう。」

 今日は、町内の自治会総会でした。
それ以外のこおとはなにも考えない日でした。

     DSCF0904_convert_20120220225737.jpg

 ちょっと、余韻とアルコールが残ってますが・・・。

「町内人権学習会」というのがあります。
たぶん、部落開放同盟が行政に押し付けてきたシステムで、公民館が責任を持って町内ごとに集会を強要してきたのです。

昨年はあまり難しく考えずに、障害のある仲間と一緒に土をこね、触れ合いながら、そこに私が語るという・・・「百聞は一見にしか​ず、みんな同じ命」でした。好評でした。

 今年は、忙しさと、いろいろ。
押し付けられたポログラムに抵抗しつつ、学習会の開催を拒否しようと思いましたが、・・・。
委託された公民館の職員の仕事でもあります。むげに喧嘩して、担当の方を困らせるわけにもいきません。

 で、今日いきなり、自治会総会のあとにやりました。
期待以上の参加。
テーマは、「一筆啓上・・・日本一短い愛の手紙」というアニメを観て、手紙を書こう、です。

「人権」って色々理屈では言える、でも身近な大事にしたい人への思いが始まり・・・、そんな思いと問題提起でした。
何人かの人に手紙と、そこに託す思いを語ってもらいました。日ごろあまりないことです。共感に包まれました。
私も公表し、その思いを語りました。
・・・・
心を開き、いい年をしながら、誰かの思いを聞いてもらう・・・、
涙あり、笑いあり・・・始めて町内の人たちが心を通あわせ、共感しあってる姿を見たような思いでした。

こんなこと書き出すとキリがなくなります。
手紙を切り口に、語り合い、自分を知ってもらう、心を開き、・・・そうしてつながりあう。

いい時間を作った今日でした。
明水ヶ丘団地自治会、・・・いいね!
俺、あたらしい次への会長二期目、やるよ!

みんなが信頼寄せてくれるのを肌で感じた。
男の値打ちは、あなたの想いに応えること!
これが俺の人生哲学や。

よいしょ、
ほんとは、俺の短い手紙と想いを書きたいけど・・・。
思いが深すぎて・・・。



俺の短い手紙だけ。


お母ちゃんへ。
「いい子が生まれてきてくれてありがとう」
お母ちゃんにもらったこの言葉、
いま、
娘たちに届けています。
「ありがとう。お前たちはいい子や!」
お母ちゃん、おおきにな。」


想いを語ると、キリがない。
母親は偉大です。


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テーマ:いま想うこと - ジャンル:日記

2012.03.18 | | Comments(4) | Trackback(9) | ・自画像・自分史断片

NO.1385 青い空、碧い海、・・・郷愁。

 こんな写真を見つけると俄然、郷愁がそそられる。
なつかしい一番好きな景色!!
15の春にここをはなれるまでの、・・・全てが蘇る。

 よしまこさんのよしまこ日記/2009年種子島より、3枚の写真をお借りしました。

前之浜

 太平洋を望む種子島南端。前之浜。
ここから左へ坂道を500メートルほど下りきると、そこは私が生まれて育ったところ、西野本村(ほんむら)。
この坂は「七色坂」という。子どものころは「ないこ坂」(漢字は不明)といっていたが、10数年前の帰郷のとき見たら「七色坂」という看板があった。
 弧を描く砂浜のかすんだ先が、ロケット基地。

 青い空、碧い太平洋、白い砂浜、みどりの原始林の防砂林、そして四季折々に色を変える田んぼ、里山のみどり、そして青い空・・・。
「七色坂」?・・・観光用の命名かしら?

 家を飛び出し田んぼをつき抜け、防砂林をくぐり、よく海に行った・・・。
沖縄のようなエメラルドグリーンのきれいで優しい海ではなかった。
碧い素朴で雄大な海だ。

 海岸に出ると東側は砂浜、西側に磯と分かれる。
もちろん右に行く。
そこが私たちの冒険と遊び場だった。
釣りをしたり、すもぐりでナガラメ(トコブシ)やイセエビを捕ったり・・・。
しかし、10数年前に行ったときは、海やけで海草はなく貝も魚もほとんど見かけなかった。
ここ一帯の磯は、世界でも有数の巻貝の宝庫と言われていたのに。とにかくいろんな色や形の巻貝で一杯だったのだが・・・。

 おじさんが、護岸工事や、上流の開発で海が死んだといっていた。

 下の写真は砂浜の中ごろ、鹿鳴川河口から東側、ロケット基地方面を望むショット。

海

 下は、太平洋まで転げ落ちそうな一本道。(よしまこさんが好きだという)
両側は、かつて我が家の畑であった。砂糖キビが風に揺れ、サツマイモ畑が広がる。
野良仕事を手伝い、海を見ながら弁当を食べたものだった。
(今は耕作してない荒れた畑が多いようだ。)
・・・ここの地名は忘れた。

畑

 突き当たりは、鉄砲伝来の地、門倉岬
50メートルを超える断崖絶壁だ。(この下の磯が私たちの遊び場だった。)
前には、はるか太平洋の水平線。
そして右には、洋上のアルプス・屋久島。
左には、ロケット基地の竹崎海岸に続く白砂青松の海岸線。

岬の少し手前を左に曲がると300メートルほどで、1枚目の七色坂である。


 無性にまた行って見たくなった。
カメラを持って数日間、ゆっくりっと・・・。

よしまこさん、ありがとう。


 ・・・ついでに、種子島の海が困っているようです。
海の男達ががんばっています。
海を守るために、国や県の支援が必要だと思います。
この流木はどこから来たのでしょう。大陸の開発、自然破壊と関係ありそうですが・・・。

種子屋久流木回収、漁船の自主奉仕頼み 行政支援体制望む声(南日本新聞 2009 09/28 10:28)

 種子島・屋久島周辺の流木問題で、地元漁船が27日までに約2400本を回収した。すべての回収本数約3700本の6割超に当たる貢献ぶり。県は、海岸に漂着した流木の回収は民間企業と委託契約しているが、海上での作業はボランティア頼みというのが実情だ。回収作業で漁を休まざるを得ない上、流木と接触して船を損傷する危険性も高い漁業関係者。「災害」ともいえる今回の流木漂流を機に、行政による支援態勢づくりを求める声は根強い。
(中略)
 高速船が10日間全面ストップするなど、島民生活に大きな支障を及ぼした流木問題。今後も同じような事態は起こり得る。問題の長期化を防ぐため、回収能力の高さを証明した漁船を取り込んだ仕組みづくりが求められる。






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2009.09.30 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.1165 僕の好きな先生と定額給付金

 昨日は大変うれしいことがありました。
中学時代の恩師・・・といっても、新任教師だった先生は、当時中学3年生だった私たちとは8歳ぐらいしか違わない・・・から、現金書留が届きました。

       buru2245.jpg

 ピン札の1万2千円に手紙が添えられています。

 前略ご免ください。
 ご無沙汰ばかりですが、お変わりございませんか?お伺いします。
 『陶友』さんからは通信を毎回頂きまして御礼を申し上げますと共に、当方はご無音に打ちすぎることばかりで非礼の段を深くお詫び申し上げます。

 さて、巷で賛否両論渦巻いた『定額給付金」が鹿児島でも支給されました。与党側が立て続けに打ち出した前年度・本年度の補正予算案は人気取り・延命策以外の何物でもないバラマキであり、貧困・弱者層に力点が置かれていません。

 小規模作業諸島が抱える問題も国の施策としてなかなか大幅改善とはならず、「陶友通信」を拝読しながら、皆さんの憤りやご苦労を共有し感じ取っているものの一人です。

 そういう中、「陶友」の皆さんが継続的・精力的に取り組んでいらっしゃる諸運動や経営改善のご努力に感銘を受けています。とは言いながら、通信の中で”署名・カンパ依頼”等があってもご協力できませず赤面の至りです。

 普段の無頓着さを恥時、18年目を迎えられる「陶友」のスタッフの皆さんや仲間の皆さん方の活動資金の一助となれば・・・と思いながら、定額給付金をカンパすることにしました。貴「陶友」のますますのご発展をお祈りします。

 涙が出そうになりました。
大学を卒業してすぐに、種子島の最南端の西野中学校(今は過疎で統廃合されてなくなった)に赴任した、小柄な国語の先生は私たちの友達か兄貴のような存在でした。

 数年前に、卒業以来35年ぶりの同窓会で再会できました。そのときは定年を前に中学校の障害児学級の担任をされており、なつかしさと共に親近感を感じたものです。先生は、「あるとき何かの事でぼくがひどく生徒たちを叱った事があってね、その時、友君がすっと起立して『はい、済みませんでした』と大きな声で謝ったんだよなあ、なんと素直な子どもがいるものかと、怒ってしまった気まずさを忘れ清清しくなったのを覚えているよ」と、当時の印象を話して、褒めてくださいました。
 その後何回か、帰鹿の際にお会いし、私の仕事のことをもっと知っていただこうと「陶友通信」を送り続けてきたのです。

 そして、「友君の手書きのコラムやあとがきを一番に楽しみに読んでるよ。気持ちが伝わってきて、励まされるよ」と、激励してくださいました。

 自分なりに稼ぎは悪くとも真っ直ぐに生きてくることができて、恩師にも未だに気にかけていただき、それに真っ直ぐに向き合うことができることを、うれしく思います。

 お礼の電話をしたら入浴中だとのことで、かけ直そうとしたら先方からかかってきました。恐縮です。
「今度鹿児島に帰ったら、必ず連絡してよ。」と先生。
「はい必ず、またみんなで集まって飲んで語りましょう」と私・・・。




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2009.05.20 | | Comments(0) | Trackback(1) | ・自画像・自分史断片

NO.512 腹が減っては・・・。

 「腹が減っては戦は出来ない」というけれど・・・。
ここ2,3日、訳あって朝食抜き。朝は絶対に食べないと気がすまないのだが・・・。

50ミリ 017
サギソウが順調に育っています。
もうすぐ花芽をあげそうです・・・楽しみ!

 朝飯抜きだと、昼ごろには腹に力が入らないわ、頭はボーっとして(もともとキリッとはしてないけどお)貧血じゃないかと思うぐらい。
世の中には、朝食抜きが相当いると言うけれど・・・、特に子どもは絶対食べなきゃいかんばい!

 飯のことで思い出した事がある。
高校のとき一回だけ先生にほめられたこと。(前にも書いたような気がするが・・・ま、いいか)
大学受験の旅館で、朝から何杯もお変わりをしていたことを、みんなの前でほめられたってだけのこと。

 すさまじいばかりの受験競争の中で、私は離島から鹿児島市内の進学校に進んだ。
田舎では出来がよくても、ここでは450人中400番。・・・国立なんてムリ。
それでも貧乏なので私立は選択肢に入らないのと、親が離農してまで「頑張っていい」と応援してくれたので、必至の受験勉強に励んだ。
 そんなある日、数学の先生が「大男、総身に知恵の回りかねとはお前のことを言うんだ!」と。落ち込んでいじけちゃったよ、ったく!たかが、方程式を暗記できなかったぐらいで・・・。
それからと言うものは、「今に見返してやる!」と、夜も寝ずに悪い頭をしごいたもんだ。

 そうして3年後の大学受験。
総勢100名が国立一期の試験に臨んで旅館に泊まりこんだというわけ。30名ほどが合格ラインだったので、私などは鼻から期待はされていない。もちろん自分でも・・・。ただ、「一回ぐらいは練習のために受けてもいいよ」と母親が進めくれた受験だった。自分では自宅から通える地元の国立二期校に入れれば、親の負担も少なく御の字だった。
 旅館の部屋割りだってわれわれ「バカクラス」組は、食堂兼用の大広間の隅に10数人入れられていた。
今思えば、差別もはなはだしい。「当確」組みは、順番に小部屋が与えられていたと言うのに、なんと従順な僕ちゃんだったこと。今風に言えば、部屋が悪いのも成績が悪い奴の自己責任?
 そんなこんなだったから、せっかく来たからには損だけはするまいと思い、朝からいつものように腹いっぱい食っただけの話。貧乏でも、いいおかずは食えなくても、腹だけは空かしたらいけないって母は言ってた。だから、毎日どんぶり飯、お変わりして3杯食ってたから。

 で、受験当日の朝、100人がシーンとして朝食タイム。
・・・先生、気になったんだろうな。
「みんな、リラックス、リラックス。今まで頑張ってきたんだから・・・。」と言いながら励ます。その時にだよ、みんなの前で褒められたのは。記念すべき、「高校時代唯一の褒められタイム」、しかも緊張のクライマックスで。
「友君を見てみなさい。もう3杯もお変わりしているぞ。みんな、緊張しないでしっかり食べて!」だと。
光栄な事でした。旅館の茶碗は小さいから、6,7杯は食わないと間に合わないんだけど。お陰でお変わりしにくくなったよ。ん?何杯め?
 かくて、私も晴れて母校からの合格者最高記録樹立に貢献できたのであります。(笑)

 腹が減っては戦は出来ん・・・のじゃ。

息抜きに軽い小話でも、と思っていたが・・・また、グダグダと書いてしもうた。
あ~~暑かね。
福岡は、初の真夏日?しかも蒸しむし。
みなさんお大事に。

 


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2008.07.04 | | Comments(2) | Trackback(1) | ・自画像・自分史断片

NO.444 ふるさとを想う歌。

今日は、花金。
きのう窯焚きで遅かったから、今日は残業はしないぞって決めて、どっかで一杯飲んで帰りたい気分だったが、・・・何せ真面目!(いや、誘う相手が決まらんのと懐ががさびしかっただけだが・・・)
早々に帰宅。
すると、おっかあは飲み会だと言うし娘たちは外食に行くと言う。
・・・で、独りぼっち。

こういう時ってなんだかセンチメンタルになってしまわない?ついでにノスタルジックにも。
そして必ず、昔のこと、田舎のことを思い出す。
そこには必ず、歌がついてくる。

焼酎でもちびりとやるか。

かまとの 011


イカリソウ


で、田舎の歌、故郷の歌といえばやはり、
「うさぎ おいし かのやま こぶなつりし かのかわ・・・」ってなるやろ?
初めてて習ったとき、「ウサギって、食ったことないけどそんなに旨いんあかなあ?」って思った奴いるだろ?・・・アホ!・・・いや俺は違うよ!ち・が・う!

今日のような日は、これからかな?
「ああ、上野駅」←クリックしたら音楽が流れるよ。

どこかに故郷の 香りをのせて
入る列車の なつかしさ
上野は俺らの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった


列車だって上野だって見たことなかったのになぜか、覚えてるよ。
東北は日本の田舎だったんだ。・・・こっちは南国種子島だったのに。
1964年と言えば、東京オリンピックの年にヒットしたんだ。
高度成長時代で、イケイケの時代。

中卒、集団就職で東京に行ったやつらだけでなく、送り出した人たちも含めて、日本中の皆の心を捉えたんだな。
テレビはまだ我が家にはなかったし、ラジオで聞いて覚えたのかな?
俺、たぶん小4だったと思うよ。

東京オリンピックつながりだから、よく覚えている。
その年、台風21号が種子島直撃!
台風一過の翌朝学校に行ったら、木造校舎が全滅。
それから、残った鉄筋の一棟と講堂を仕切った教室で2部授業が始まったとよ。
1,2,3年生は午前中、4,5,6年生は午後、とね。

そのとき東京オリンピック。
国威発揚だったか、家電メーカーの戦略だったかは知らないが、教室に小さなテレビが置かれ、観たものだった。
・・・その年のヒットだったとはね、今結びついたよ。

この歌が心にしみたのはもっと後だと思うな。
実際に級友たちを集団就職で送った経験があってからだと思う。

かまとの 016

イカリソウ

もう一曲いい?
ほんとは、こっちが本命。

君の故郷は ←クリックしたら音楽が流れるよ。

作詞 永 六輔
作曲 いずみたく

1 教えてくれ 君の故郷を 聞かせてくれ 君の子守唄を
 朝の砂浜 波に沈む夕陽 枕に聞く 潮騒
  ■教えてくれ 君の故郷を
  ■東京には無い 蒼い海の話を


2 教えてくれ 君の故郷を 聞かせてくれ 村祭りの歌を
 山の湖 小鳥たちの語らい 木の葉浮かぶ せせらぎ
  ■教えてくれ 君の故郷を
  ■東京には無い 深い杜の話を


3 教えてくれ 君の故郷を 聞かせてくれ 昔からの話を
 御先祖様の 墓の見える畑 泥にまみれる おふくろ
  ■教えてくれ 君の故郷を
  ■東京には無い 土と空の話を


俺の中では、「ああ上野駅」よりずっと後なんだけど、1966年だそうだ。
同時代には聞こえないなあ。

高度成長期、公害で東京には青い空がなかったか。
この青年は、江戸っ子か?
彼女は田舎出身なんだ。
ま、そんな詮索はするまい。
デュークエイセスが、紅白でうたってたんだっって。

ついでに、こんなのも。
1966年、第17回紅白歌合戦。

懐かしい名まえと曲がズラリ・・・!
こんなものに懐かしがって・・・やっぱ、歳かなあ。

このころは我が家にも、近所にもテレビがあったな。
裏山のてっぺんにに共同アンテナを作って、フィーダー線でつないで・・・。

・・・こうして、「田舎」と「故郷」に弱い友さんなのでした。
一人で飲んでも、ちっとも旨くなんかないや。
ではでは。


おっさんの昔話に、おつきあいありがとうさんです。よろしければもう一押し!!ポチポチッとお願いね。
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2008.05.23 | | Comments(5) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.425 母の日

今日は母の日でした。
やっと夕方に電話をしました。

母の日 018
シコタンソウ
別に特に改まった話はありません。
色々と書こうと思っていましたが、声を聞き、声を聞かせただけでいいです。

母の日 013
ヒメカンゾウ

「子の心配をするのは親の商売」だそうですから、商売の邪魔をするわけにもいきません。
「心配すんなよ」というと、
「およ、わあが良かればよかとよ」と、さびしそうに言うから・・・。

母の日 017
チョウジソウ
ここにかわいらしい花でも送るとしよう。
(こんなもの見るすべもないのだが・・・)


母の日と言うものを意識して、母に何かをしたのは、
大学1年のとき。
連休で鹿児島に帰って、天文館をぶらついていたら、ミシンメーカーが街頭キャンペーンをしていた。
母の日のメッセージをただで届けてくれるらしい。
ミシンの広告つきのはがきで。
その場で書いた。
カーネーション(らしき)絵と、「日本一のおかあちゃんありがとう。」とひとこと。
照れくさくて口に出せたものではない。

喜んでくれた。・・・よかった。

いつだか、「お母ちゃんは、子育てに失敗したと思ったことはない?」と聞いた事がある。
自分の子育てを振り返り、ふと聞きたくなって。

「いやあ、なんも。たいしたことは何もしてあげられなかったけど、うち子たちは4人ともみんなおりこうさんに育ってくれて、何も言うことはないよ」と言っていた。

・・・それと、「親の商売」は,また別のものらしい。



「・・・じゃ、まあ、元気でやれよ」
声を聞いて、声を聞かせただけでよしとしよう。

おっかあや娘たちが色々と贈り物をしてくれていたようだ、毎度のことだが。
「電話ぐらいはしてあげなきゃ!」とおっかあに言われた。

お母ちゃん、おおきんなあ。(ありがとうね)


それと、日記風な蛇足。
床屋に言った。「相当お疲れですね」だと。
え?と思いつつ、すっきりして帰ると、
長女が「おお、おやじ。久しぶりに見ると老けたね!」
ガ~~~ン!
そのことをおっかあに言うと、
「そんなことでいちいち落ち込んでいて、生きていけるかね!私なんかね・・・」

はい。

・・・ってなこともありました。


おつきあいありがとうさんです。
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2008.05.11 | | Comments(5) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.362 「ここばあちゃん」の手。

先日、「」のことについて書いた。
    」の歌・・・自分のが好きですか? ">過去ログ NO.355 「」の歌・・・自分のが好きですか?

 と言えば、どうしても書いておきたい手のことがある。
それは、方の祖母の手である。なぜだか語源もわからないが、私たち兄弟は「ここばあちゃん」と呼んでいた。歩いて4,5キロだったろうか、隣村のここばあちゃんの家によく泊まりに行ったものだ。

  ばあちゃんは、「そうかそうか、よう来たよう来た」と、その大きな手で頭をなでてくれた。いや、そんなかわいいものではなく、頭をわしづかみにして揺さぶられ、弟の表現によると「脳みそがぐらぐらする」ぐらいだった。(それで弟は頭が悪くなったと言う話はないが・・・笑)

 働き者で頑丈なばあちゃんは、もう記憶の中である。
その中では、O脚の上に曲がりかけた腰を乗せて少し体をゆするように歩いてていた。
上から6人の娘と下に4人の息子たちを産み育てて、「一人も欠けることなく、みんな元気に大きくなった」が自慢だった。当時は、栄養状態が悪かったり戦争に取られたり、生まれたたくさんの子供たちが欠けることなく育ち、大人になることはまれだった。は、その三女である。

 おかしなもので、世の中には親っ子とか父親っ子というのがある。
私は前者で兄は後者だった。ついでに、ばあちゃんっ子じいちゃんっ子というものもあり、それも方父方というものがあった。私は方のばあちゃんっ子で、兄は父方のじいちゃんっ子だった。

 そう思い込んでいたこともあり、具体的にどうということではないが、とにかく可愛がられたという思いがある。

 中学を卒業し田舎を出てからは、会う機会もめっきりなくなった。
私は、結婚する時どうしてもを、ここばあちゃんに合わせたかった。
と言うか、ばあちゃんをに見せたかった。

 結婚する時にたった5万円しか持っていなかったお金で、「新婚旅行は、海外旅行」と決め、海を越えて種子島のばあちゃんの家に行くことにしたものだった。交通費だけ自前で、滞在費も食費もすべてばあちゃんち。(どこまで甘えとるんじゃ!)・・・とても喜んでくれた。

 その時、ばあちゃんと手のひらを重ねあわせてて比べてみて、に話したことが嘘ではなかったことを証明する機会を得た。
当時、もう70歳をはるか過ぎたここばあちゃんの手は、世の中でも一番大きい部類の、大人になった私の手とほぼ同じ大きさだったのだ。私自身も改めてびっくりしたのを覚えている。
 その手で小さな頭でもなでられようものなら、なるほど「脳みそがぐらぐらする」はずだ。

 表の通りに人が歩いていると声をかけ、「さあ、よって行きなさい。お茶を飲んでいきなさい」と招きいれ、お世話好きが大きな手で小さな湯飲みを出す。孫たちの頭をなで、みかんを5個も6個もわしづかみにして「食え食え」という・・・。

   大地から作物を育て、子どもたちを育てた手。
          節くれだった荒れた手。
           ごつごつと、優しさと暖かさをくれた手。
            「ふるさと」を心に刻んでくれた手。

 時は巡り、母はあのころのばあちゃんの年を過ぎ、私もあのころの父の年齢を超えた。



あれ?心がちょっとセンチになりました。
旭さん、読んで下さっていますか?あなたのお母さんの、暖かい手のことを書きましたよ。
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テーマ:いま想うこと - ジャンル:日記

2008.04.02 | | Comments(2) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.359 3月は去る。4月は・・・花見のお誘いです。

 振り返ると早いもので、今日で3月も終わりですね。
今日は晴れて暖かくなってくれるかと思いきや・・・また寒さが戻りました。新年度への持ち越しの仕事も気になりながら、「今日は一人でのんびりしてもよかった日」と思い込むように気持ちを整理しているところです。

 たまの休みの日は、よっぽど計画的にすごさないと、ずるずると時間が流れて、「ああ、せっかくの休みに俺はなにやってたんだ~!」と落ち込むことになります。結局今日もそんな一日が終わろうとしています。

 おっかあなどは「なんで落ち込むと?休みの日はナンもせんで良かろうもん。かわいそうな性格やね」と、こうだ。

「そう言えるあんたが羨ましかあ!」

あなたのその性格に救われます。

 


そうそう、花見のお誘いです。

事務局では、まだお名前で押さえられていないようです。こちらをどうぞ→花見のご案内 
ぜひたくさんご参加いただき、新年度にむけた「元気付け」の場にしていただきたいと思います。
ふるってご参加ください。



 4月は花見から・・・。
余談ですが、ひとつの花が咲くことが全国的なニュースになる国って、日本だけなんですね。
開花が予報され、開花前線とその様子が追いかけられていくなんて・・・。
花見は、国民的な文化なのでした。
そらあ、やっぱり参加せないかんばい!

ちなみに我が家の桜は、富士桜が散り、陽光桜がほぼ満開。
旭山がもうすぐ咲きそうで、山桜は3部咲き。

私はソメイヨシノよりも山桜が好き。
里山の山桜が、私にとっての桜の原風景かな?
中学校の卒業式の会場の花は、山桜と菜の花がお決まりだったと記憶している。
担当の先生か用務員さんが、野山にとりに行ってたのだろうか・・・。


さあ、明日からまた始まり。
今日は早めに寝るとするか。
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テーマ:思ったこと・感じたこと - ジャンル:日記

2008.03.31 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.355 「手」の歌・・・自分の手が好きですか?

みなさん、おはようございます。
今日もテーマをパクッたみたいで、ちょっと気が引けるんですが・・・。

なんと言うか、とても素敵なエントリーに触発されてしまいました。
葉月さんの「」という一文です。→「今日もありがとう」

   『はたらけど
    はたらけど猶わが生活楽にならざり
    ぢつとを見る 』
                    石川 啄木

好きです。
ってきっと自分の体の中で一番の働き者じゃあないかな?
そう思うとがとても愛おしく思えます。

・・・(中略)・・・

私も啄木のようにじっとを見た。
ぎゅーっと握ってこぶしを作ると「明日もがんばろう!」と力が湧いた。

   以上引用。ぜひ訪問して全文お読みください。個人的には秀逸な一文だと、とても好きです。

 改めて手に思いをはせると、の手、祖母の手、娘たちの赤ちゃんのころの手・・・色々な手への記憶と思いが甦ってきます。

 今日は自分の手。かつては嫌いだったこの手について。

 手のことを初めて意識して、即嫌いになったのは高校の時。種子島の田舎から、鹿児島に出て来たころのことです。せっかく進学校に通わせてもらったのに、なかなか成績が振るわず、頑張っても頑張っても芽が出なかったころ、劣等感にさいなまれ、その罪をこの手にまで着せていました。

 路面電車のつり革に伸ばすこの手が恥ずかしくて、隠してしまっていた頃があります。私の手は、田舎者・百姓の象徴のようなもの。分厚くごつごつと大きくて・・・、そんな手が、なんとなく恥ずかしかった頃でした。芽生え始めた安っぽい色気が手伝っていたのです。都会の少女たちに見られたくなかったのです。(誰も見とらんわ!って?そうなんだけど、その頃はそんなものでしょう?青春の入り口の自意識過剰!)

 それからしばらく、手のことは忘れていました。
就職して、必要に迫られ陶芸を始めました。親に似てとても器用な手です。の手も、あんなに大きくごついのに、なんであんなに繊細で器用な仕事をやらかすんだろうというぐらいに器用でした。再び手のことを意識するようになりました。

 みんな「うわ~大きい!」と言います。陶芸教室なんかで、ちょっと手本を見せると「マジックハンド!」と言ってくれます。ある程度土を扱えば誰だってこれぐらいは・・・ですが、それでも嬉しいものです。

 今は、自分の手が好きです。
ある人が私の陶芸を褒めてくれ、手を握り「この手は物を作る手だ。この厚みは見たことがない。これぐらいで満足したらイカン!この手に恥じない仕事をしなさい」と言ってくれました。単純な私は、とても嬉しくなりました。それだけではありませんが、自分なりに生きてきて、自分を好きになれるようになって、・・・そして今は、自分のこの手がとても好きです。土とともに生きた百姓の手が大好きになりました。自分のルーツを象徴するようなものですから。

 余談ですが、その美術評論家氏が言った「これぐらい」です。ちょっと見せびらかしました。(お恥ずかし)もう15年以上も前のことです。それからは、作業所運営で忙しく作品らしきものは作っていません。いつか、もうひとつ今の自分を表現できる作品つくりに挑戦したいとは思っていますが・・・。

 ・・・そう、いつもここにある手。
葉月さんの一文を読み、自分の手を気にかけて大事にしてやりたいなと思いました。

 皆さんの手はどんな手ですか?どんな思いを持ってますか?

好きな「手」の歌です。

    
       【作詞】竹下八重子 【作曲】 荒木栄 .

太い手 細い手 日焼けの手と手 
 みんな生きてる わしらの手  
雨にはあぶれても 風には怯えても
 闘い抜いてきた  みんなの手と手
エンヤコラ ドッコイショ  エンヤコラ ドッコイショ 

音楽が見つかりません。荒き栄です。年輩のうたごえ世代の方はご存知でしょうね。

これなんかもいいですね。
障害を持つ仲間たちにプレゼントされた歌です。
 つかむ、学ぶ、働くことで進化していく「世界でもっとも短い進化論・唯物史観。」

   

   手のうた クリックすると音楽がかかります。


【作詞・作曲】すずききよし


1.君のその手は 何のための手
  君のその手は モノをつかむ手
   しあわせをつかむ手
   未来をつかむ手
   君のその手は
   みんなとつなぐ手

2.君のその手は 何のための手
  君のその手は モノを学ぶ手
   しあわせを学ぶ手
   未来を学ぶ手
   君のその手は
   みんなとつなぐ手

3.君のその手は 何のための手
  君のその手は モノをつくる手
   しあわせをつくる手
   未来をつくる手
   君のその手は
   みんなとつなぐ手


 葉月さん、ありがとうございました。



みなさん、最後までのお付き合いありがとうございます。
あなたのポチッが、私の元気。
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2008.03.29 | | Comments(4) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.353 人生あと三分の一、「嫌われ者」返上へ、自己点検。

 本日は窯焚き。
本焼きは本年度18回目。素焼きも入れると31回目となる。
お陰でここのところ、居酒屋の取り皿、ラーメン屋のどんぶりに保育園のご飯茶碗、米寿祝の引き出物のマグカップとまとまった注文が入っている。ありがたいことで、仲間たちの励みになっています。

ところで哲老さんがこんな事を紹介しています。
 

 氏は講演の最後に、カーネギーの「人を動かす」から「人に好かれる六つの法」を話されました。
誠実な関心を寄せる  ②名前を覚える       ③笑顔を忘れない   
④聞き手にまわる     ⑤関心のありかを見抜く  ⑥心からほめる 

 どれも最近どこかで聞いたり見たりしたことです。真理は福祉に限らず、全てに通じるものだと思った次第です。



 私は、へそが曲がっています。
みんなに好かれたいと思いながらも、なぜかしら「怖い」と言われます。何故かしらじゃないだろ!?「その人相と無愛想さなら当然だろ」と言う声も聞こえてきますが・・・。
 普通、そうだったらニコニコ愛想もよくして好かれる努力をするのが大人の行い。ところが私は「どうせ私は怖いでしょう。人を見かけで判断する人には期待に応えて、怖く当たりましょう」なんて、へそ曲がりの所以です。

 優しさだけが取り得だと健気に生きてきても、最後の砦が崩されてしまいます。(涙)
そろそろ生い先も長くはないし、謙虚になって考え直さなければ気持ちよく往生できないかも、と思うこの頃です。そんな時、哲老さんの上の記事です。

 自己点検してみようと思います。

誠実な関心を寄せる 
 人のことを他人事に思えず、自分に引き寄せて誠実に考えながら生きてきたつもりです。そういう自分を生かすためにこの福祉の仕事をも続けてきました。

②名前を覚える ぜんぜん覚え切れません。そう自覚がありながら、覚える努力を怠ってきました。再来のお客さんがあっても、顔とどういく人だったかは記憶があるので、話は進むのですが名前が・・・。そういう時は、他の職員にそれとなく名前を聞き出すように頼んだり・・・。いかん、いかん。 
      
笑顔を忘れない
 笑顔、ですね。「笑顔がチャーミング」と言われた事もありますよ(テレ笑)。でも普段は、「鬼瓦」。男がへらへらしていられるか!イヤ、やはり笑顔は大事ですよね。解っちゃいるんだが、まだ心に壁をつくっているのかも。「怖い人」なんていわれた日にゃ、傷ついてしまい、絶対に笑顔なんか見せてやるものかと「鬼瓦」が固まってしまいますね。・・・子どもみたい!(苦笑) 
  
④聞き手にまわる
 時と場合によるけど、大体が聞き下手。ゆとりがないんでしょうね。我が強すぎて自分を押し出しすぎていますね。これも落第。
     
⑤関心のありかを見抜く
 それは誠実に向き合い努力をしている、と思いますが。人相手の仕事ですから当たり前。どうでしょう? 
 
⑥心からほめる
 最近は少しは褒める事も出来るようになりましたが、これもゆとりがないと出来ませんね。大体自分の経験に裏付けられていますね。わたしは、褒められて育ったというよりも、叩かれて這い上がってきたところがあるので、いびつなのですね。

 こうして省みれば、好かれないのが当たり前!
大体私はこの手の話は好きじゃない。「・・・する方法」とか「・・・の心得」とか教条にしたやつは。
「そんなもの自分で考え、自分なりのやり方でするものだろ」と、反発してしまいます。

 この六つをすれば好かれるのではなく、好かれている人は大体こういうところがありますよって事でしょう。しかし、型から入るということも大事ですね。いい年して、いつまでもガキのようにというわけ野も行かないなと考えるようになりました。

 誰だってこう言う風に接してもらうと気持ちがいいものです。
嫌われ者」でも結構という開き直りは辞めて、みなさんに好かれる努力をしようと素直に思うこの頃です。後の人生3分の1?気持ちよく生きられたが良いに決まってますから・・・。

素直に言おう。
「みんなに好かれたい!」「誰か好きって言って!」 


最後までのお付き合いありがとうございます。
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2008.03.27 | | Comments(9) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.282 こだわっているわけじゃないが・・・。 

こんにちわ。みなさん。
お向かいのネコヤナギが、白い綿芽を覗かせています。
落葉しきらなかった古い葉っぱの間から。
・・・陽光がきらきらしています。

いい年して自分の誕生日の事など書いて・・・、ですが。
特にこだわりがある訳でははありません。

小さいころから誕生日を祝うという習慣はなく、自分の誕生日も気づかすにやってきて、
意識して「誕生祝」をしだしたのは、娘達が生まれてからです。
ついでに父親である私のお祝いも、する事になったぐらいのものです。
娘達がケーキを食べる機会を、一回増やしてあげたようなもので。

過去には、1度だけありがたい誕生祝をしてもらった事があります。
二十歳のとき。

大学に入って2年目の終わりでした。
留年はするわ、何のために勉強するのかわからず、大学にも行かず、寮に「閉じこもって」いた頃。
留年して親に悪いなと言うのが1番気重で、かといって大学に行って単位をとる気にはなれず・・・。
出口が見つからない・・・、そんな八方塞のころでした。

1年下のI君やT君たちが中心になり、なけなしの金を出し合い、おでんと焼酎を手に入れ、誕生祝をすると押しかけてきたのです。
仲間は皆貧乏で、地方からの出身者が多く、時にはパンの耳や、生協ラーメンを分け合って食べた仲間たちでした。
寮祭や、行事の時はアホ丸出しで「元気」な友さんが、元気ないから景気づけしてやろうと言うことになったのかもしれません。

入れ替わり立ち代り、部屋はぎゅうぎゅうになりました。
何を話したかは、今はもう覚えていません。
皆に歌ってもらった歌は、今でも歌えます。

どこかで待っている 人を探して
歩き続けた わたし
夏雲の下 木枯らしの夜も
前を向いて 歩き続け
仲間を知った 
わたしは 二十歳(はたち)


うたごえ運動の中で、唱われていた歌です。
青いころの思い出です。(いまだに青さが抜けませんが・・・)
あの日はまっすぐに、今日の私につながっています。
久しぶりに唄ったら、鼻の奥がツンとして来ました。

あの時以来の仲間たちに”ありがとう”を伝えられたら・・・。

お祝いのコメントや、ポチ、ありがとうございます。


応援に感謝です。2つも大変でしょうが、誕生日のお祝儀と言うか、慰めにということで、ポチポチッとよろしくお願いします。
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2008.02.08 | | Comments(6) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.146  『自信のあるなしについて』・・・俺も青春時代に出会った宝物だよ!

奇遇って言うか、こんな事ってあるものですね。

熊谷敦子さんのブログ(→こちらをくりっく!)を訪問したら、・・・なんと!
宮本百合子の評論『自信のあるなしについて』を宝物として持ち歩いているのだそうです。

実は私も心の中に持ち歩いています。以下引用です。

「私たちのまわりでは、よく、自信があるとか、自信がないとか表現される。…自信がなくて、といわれる時、それはいつもある一つのことをやって必ずそれが成就すると自分に向かって言い切れない場合である。…いったい自信とはそのように好結果の見とおしに対してだけいわれるはずのものだろうか。…私はむしろ、行為の動機に対してこそ自信のある、なしとはいえるのだと思う。あることに動こうとする自分の本心が、人間としてやむにやまれない力に押されてのことだという自信があってこそ、結果の成功、不成功にかかわりなく、精一杯のところでやって見る勇気をもちえるのだと思う。…行為の動機誠実さに自分の心のよりどころを置くのでなくて、どうして人生の日々の新しい一歩を踏んでゆかなければならない青春に自信というものがあり得よう。」



この1文に出会ったのは、大学に入って3年目ぐらいだろうか、当時留年中でした。
留年したこともあるが、周りがが皆頭もよく、自分より優れていて、
劣等感にさいなまれていました。

それでも後輩たちは、悩みを抱え込み、よく私の部屋に集まり、
安い焼酎を飲んだものです。
その悩みに答えられるはずも無く、また無力感と劣等感に打ちひしがれたものです。

「人がみな われより偉く見える日よ 花を買い来て 妻と親しむ」

啄木の歌のような心境(?)でした。
種子島の田舎から出てきて、悪い頭を、寝る間を惜しむ受験勉強でごまかし、
アップアップで入った大学でした。
上手くいかないと、劣等感に陥ると言う循環を断ち切ることが出来ないでいました。

その頃出会ったのが百合子です。
新書版の『若き知性に』。
その、多分2ページにも満たないくらい短い評論だったと思います。
(学生時代の本は倉庫の中なので、他人のふんどしをコピーでお許しを。)

「…行為の動機誠実さに自分の心のよりどころを置くのでなくて、どうして人生の日々の新しい一歩を踏んでゆかなければならない青春に自信というものがあり得よう。」

特にこの部分に救われ励まされました。
当時、学生運動に参加し社会の矛盾に目覚め、
何をどう学ぶのか?どう生きていけばいいのか?・・・真剣に向き合っていた時です。
当然先のことが描ききれるわけはありません。どういう人生を作りきるかなんて・・・。

「行為の動機誠実さに」
少なくとも、打算も無く田舎の少年そのままのそれを持っていました。
それだけは自信がありました。

「人生の日々の新しい一歩を踏んでゆかなければならない青春」の「自信」。
それでいいんだよ。しっかりやってごらん!
優しく、励まされ背中を押されました。

よし、これでいいんだ。自分に誠実に生きていこう。よどんだ心が晴れ渡ったのを今でも覚えています。

それから、停滞もあり、悩みもありましたが、ここまで生きてきました。
自分を大切に、貫き、生きてくることが出来たと思います。
(おいおい、友さん、まだ人生終わったわけではないぞ!)

青春への賛歌、エールですね。
いま、実習の学生や若者たちに向かって、時々、百合子に成り代わって、
この言葉を送り励ましている自分がいます。(偉そうに!)

「自信とは自己信頼だ」と。

まだまだ友さんも若いし、未知との遭遇は沢山あるでしょう。
自信を持って生きたいですね。

新人議員の熊谷さんが、新しい取り組みを前に不安になったとき、
優しく励まし、後押してくれるんだろうと思います。

ちなみに、彼女は隣の女子大のお姉さんでした。
同時代を、あの70年代前半を、学生自治会活動を通じて知ることとなった方です。
誠実、一生懸命の方です。

おんなじ宝物を持ってるなんて、なんだかとても嬉しくなって書いてしまいました。
熊谷さん、有難うございました。



読んでいただきありがとうございました。
2つのお願い
1)よろしければ、一言でもコメント頂ければとても嬉しいです。
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ちょっと感傷に浸ってしまった。
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2007.11.09 | | Comments(1) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.137 父親の最初の思い出か?なんだろう?

先日の金八先生
陶芸教室を終えて急いで帰り、授業シーンから観た。
父親について考える、父親の最初の思い出を語り合うと言う場面だった。


万葉の歌人山上憶良の和歌が教材。

銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

  【通釈】銀も金も真珠も、何になろうかね。大切な宝と言ったら、子にまさるものなどありはしない

憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ

  【通釈】憶良どもは、もうこれで失礼致しましょう。家では子らが泣いているでしょう。ええ、その母も私どもの帰りを待っていることでしょう。

 これは、宴会を中座する時の歌。
どこかの誰かさんのように、いつまでもダラダラ最後まで飲み潰れないで、
妻や子どものことを思い、2次会はおろか1次会の途中で帰るというもの。
つめの垢でも煎じて飲みたいものだ。
番組では「そを負う母」と紹介されていたが・・・。 


以上の2首は、中学の時に覚え、空で言える。
そして次も口から出てくる。

瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食(は)めば まして偲(しの)はゆ いづくより 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ

  【通釈】瓜を食えば、子供にも食わせてやりたいと、子供のことが思われる。栗を食えば、まして偲ばれる。一体どこからやって来たものなのか。子供の面影が目の前にやたらとちらついて、夜もおちおち眠れない。


次の歌は、番組ではじめて聞いた。

若ければ 道行き知らじ 賄(まひ)はせむ 下方(したへ)の使 負ひて通らせ


  【通釈】幼いので旅の仕方も知らないでしょう。贈り物は我らがしましょう。ですから黄泉(よみ)の使いよ、我が子を背負ってお行き下さい。

 これは、幼くして我が子を病気で亡くした山上憶良が、嘆き悲しんで成仏を祈る歌だそうです。
「ちっちゃい子だから、あの世までどうかおんぶして行ってやって下さい。」
あの優しい父ちゃんの嗚咽と慟哭が伝わってくる。
いや、もう涙も枯れ果てて、心も働きを忘れたのかも知れないな。

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さて、1300年以上も前の、このおじさんの子ども思い、妻思いは、
思春期の田舎の少年にもストレートに伝わり、何の抵抗もなく暗記したものでした。


しかし現実の親と言うものは、そう易々と受け入れがたいと言うのが、思春期
そこで、親父と言うものを、客観化してみてみようと言うのが、金八先生授業

先生の話を今の私が聴くということでは、言い話だったが、
あの授業は、金八さんの一人相撲でドラマとしては、リアリティーに欠けていた。
ま、それはどうでもいい。


私の父親の記憶は、んーん、と言うところだ。

父親に抱っこされた記憶もない、弟たちがそのひざの上で遊ぶ光景も記憶にない。
働く姿や、一緒に働いた記憶はある。しかしそれはあまりにも日常過ぎて・・・。
そう言う日常的な記憶は、次々に出てくるが、改めて、父親の最初の記憶はと問われても?である。
特別にはない、と言うと親父に悪いような・・・。

不思議と覚えている風景がある。
5歳ごろ、父が、生まれて間もない妹をねんねこでおんぶして凧揚げをしたこと。
私と弟が父親のそばで、凧を揚げてもらい、兄は自分の凧を引っ張って走っていた。
正月、家の前の田んぼでの風景だ。

子どもも抱かない親父が、4人目に生まれた女の子がよっぽど可愛いんだろうと、近所のばあさんが言っていたのを不思議と覚えている。
それが最初の父親の記憶である。




さてさて、今度は、父親としての私の体験より。


腹立つと言うか惨めというか・・・。



娘4人とも、性格により多少の違いはあるものの、
生理が始まる5年生ごろより、極端に親父を嫌い避けたがる。
その度合いは、それまでのベタベタに反比例していた。
それまでは「男はお父さんしか目に入らない」といって、感涙を誘っていた次女などは、
ソファーの端っこに座ろうものならば、すっと立ち上がりどっかへ消え、
「なんなんじゃー!くらすぞー!」と言いたいぐらいだった。

そこは我慢。解ってんだよ。
自分の性に目覚め、受け入れる葛藤をしている最中に、
これまた気づいてしまった父親の性を、受け入れることなど絶対に出来ないなんて。
頭で解っても、目の前で毛嫌いされると・・・ね。

幸い、4人が順繰りにそう言う時期を迎えたので、
下の娘はくっついてくるし、上の娘は「まあまあ」となだめてくれたりもして、
孤独にはならずに済んだのだが。

親の心 子知らず」と言うしね。


いつの世も親子の歴史は繰り返すか。
山上憶良は一人っ子をなくしたのかな?
もし思春期の娘でもいたら、どんな歌を詠んだんだろうな?




読んでいただきありがとうございました。
長々とホントにすみません。

2つのお願い
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山上憶良っていいなあ。改めてゆったりした心持になりました。
今からでも遅くない、こんな親父目指そう!
でも、宴会を途中で抜けるのだけは、俺、絶対に出来ません

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2007.11.03 | | Comments(4) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.102 友さんはマザコンではありません。・・・母の涙

3行日記・・・07.10.15

庵を建て、半一人暮らしをはじめて1年になる。今日は久しぶりにのんびり、何もしなかった。
夕方カンタ(柴犬8歳、我が家の長男)と散歩に出た。
日が落ちるのが早くなった。秋のこの空気感は、寂しさ。何で寂しく感じるんだろうなあ。




先日の囲炉裏塾で、私は「母の涙」について話した。
一人が「友さんはマザコン」と書いてあったが、この言葉は好きではない。
私の場合は、コンプレックスではなく、心の中に深く存在するということです。

私の母は76歳。
今も、原付を乗り回し元気だ。
口数の少ない人で、働き者で辛抱強い苦労人だ。

私は、父と母と家族と暮らし、言葉ではなくその存在によって育てられれた。と思っている。
私が、娘たちのことでイライラして、
「おかあちゃんは、子育て失敗したと思うことは無かった?」と聞くと、
「そんなことはない。私たちみたいな親から、こんないい子ども達が育って・・・」
と言うような人である。

母に怒られた記憶は、ほとんどない。

囲炉裏塾の時に話したことを、書いておこうと思う。
種子島の田舎での出来事である。

私が小学1年になりたての頃の話し。

農家は日が落ちて暗くなるまで働き、馬車で帰ってくる。
近所はみんな女の子で、彼女達は暗くなると、賄いの手伝いをする。
母親が野良仕事から帰る頃には、晩御飯ができているのである。

うちは、母が帰ってきてから炊事が始まる。
動機は明確には記憶してないが、母の大変さを思った。

ある日私は、自分で飯炊きをすることにした。
今のように、スイッチポンという風には行かない。
水汲みにいき、まきで火をおこしかまどで炊くのである。
水加減も火加減も分からないのに、とにかくやってしまった。

結果は見事に、食べるところが無いほどの焦げつき!
裏山に全て捨てて、お釜を洗いながら、
母は、「お前はバカな子じゃ。」と涙を流した。
そして「火事でも出したらいけないから、子どもは、足を洗って家に上がっときなさい。」
とだけ言った。

私は、無性に涙が出て止まらなかった。
失敗したのが悔しかったのか、よくは分からなかったが、
とにかく涙が出てきて仕方が無かった。
そのうち「お母ちゃんは喜んでくれてるんだ」という思いが沸いて来た。
その日のその後は、記憶に無い。

「お母ちゃんは喜んだ」という思いは、日に日に膨らんだ。
そして、ほとぼりが冷めた1週間後、再び挑戦することにした。
今度は隣の姉さんをコーチに迎えて、水加減火加減を教えてもらいながら。
成功した。

母が喜んで褒めてくれた記憶は、しかし無い。
それから毎日、夕方の飯炊きは私の役割となった。
中学に入り、部活で帰りが遅くなる日まで。

私が自分から、その役割を担うようになるには
母の涙」だけで十分だった。

自分が何かをすることで、誰かが喜んでくれる。

私のなかで「母の涙」は生き続け、人生を導いてくれている。

こういう仕事を選んだのも、こういう生き方を選んだのも、そこに出発があると思う。

人は出会い、関わりあい、そして誰かの心の中にに生きていく。
たぶん死んでも。


里の秋」でも歌うと、胸がキュンとなり、涙腺が緩むような、
そんな季節になってきた。


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2007.10.16 | | Comments(4) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.72 十五夜綱引き・・・種子島バージョン

 関西の知人に「子どもの頃、十五夜綱引きをしていた」と話したら、珍しがっていた。

ネットでちょっと覗くと、薩摩半島のあちこちで十五夜綱引きが行われているようだ。

私の郷里は種子島
月見をした覚えはない。
綱引きをしていた。しかも、子どもたちだけの行事だった。

夏休みが空けてしばらくすると、
学校から帰ると、子どもたちは部落の公民館に、藁をもって集まる。
綱引き用の綱を綯うのだ。

当時、最南端の西野本村という部落には、50人近い小中学生がいただろうか?
上級生の指導で、大きな栴檀の木の枝に引っ掛けて、みんなで綱を綯った。
2.30メートルはあったろうか、1週間以上はかかったような気がする。
小さな縄を綯い、それを又ないあわせていく作業だったように記憶している。

そして十五夜。
夕方公民館に集まり、浜に行く。
浜までは500メートルほどの距離。
途中、うっそうとした原生林の防砂林がある。しかもそこら一帯は墓地。
怖がる低学年や女の子を上級生たちがはさんで、綱にしがみついて通り抜けたものだ。

防砂林を抜けると、白い砂浜は昼のように明るかった。
そこで、部落の東西に分かれて綱引きをするのである。
綱が切れるまで、・・・大概のところで切っていたのかもしれないが・・・。
そして今度は、切れた綱を引きずり、砂に埋めて、綱隠し。
その綱を、探しあうのだった。

え?
ほかの部落もやってたのかな?
何で子どもたちだけの行事だったのかな?
今になって思えば、そんなことも知らない

今度ゆっくり調べてみんといかん。

・・・だから、お月様に団子を備えて・・・そんな月見は、大きくなってから知った。

昨日が十五夜。満月は明日。
子どもの頃を思い出した。

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2007.09.26 | | Comments(1) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.68 修学旅行シーズンだそうで・・・母の涙を思い出す。

 夕方、小学校に豆腐を売りに行ったT君が、「修学旅行で先生が少なくて、売れ残った」と。
そうかそういう頃か。

私の小6の修学旅行は、鹿児島、霧島に3泊4日だった。船で種子島から鹿児島に出て1泊・・・だから、島の修学旅行はこうなる。
ちなみに、中学のときは、九州一州の5泊6日だった。

初めて船で島を出て、霧島の山々を見たり、動物園に行ったり、デパートにいったり・・・それなりに・・・。

一駅だけ汽車にも乗った。
地図ではあんなに大きく線路が書かれており、テレビで観る鉄道は、複線で列車もどんどん行きかうのに、単線の鹿児島本線を見て「えー、こんなものか」と思ったものだった。

 島の最南端の小学校に帰り着いたのは、午後4時前。
子どもたちを初めて旅に出した母親たちが迎えに来ていた。
それぞれに土産を見せたり、再会が新鮮だったように思う。

母は「土産は?」と聞いてきた。
「なにも・・・」
私はそういって、千円を母に差し出した。
そのときの小遣いは、千円以下という決まりだった。
「おまえ、1円も使わなかったのか」と、母はびっくりして「ガムもチョコレートも食べなかったのか?」と聞いてきた。
「旅館のメシを、腹いっぱい食ったから、欲しくなかった」と答えた。
切ながる母に、汽車で乗り合わせたおばさんにガムをもらったことは伝えた。
そして、「小遣いは千円、きっかり使った。」と、グローブを見せた。

実は、出発前に「よく手伝ってくれるから、欲しいものを買っていい」といわれ
「グローブが欲しい」といったら、千円を持たせてくれていたのだ。

最後の夜、山形屋での買い物があり、もう少し安いものもあったのだが、思い切って満額の買い物をしてしまった。
ドキドキしたのを覚えている。

グローブなんか持ってる子は、何人もいなかった頃・・・。

「そのお金は別と言ったでしょ。お前は馬鹿な子だね」
母は、ほろりと涙を落とした。
「じいちゃん達にも、元気で行って来たよと土産でも買ってくるものよ。人が、おいしいおやつ食べてたとき、どうしてたの。」
と言い、母は、涙を拭きながら、町の雑貨屋でお土産のお菓子を選んでいた。

おいしいおやつが欲しくなかったのじゃないかもしれない、
うちは貧乏だからと、特別に無理をしたわけでもない、
グローブだけで十分嬉しかったのだ。

母の涙は、決して自分の行いを、悲しがってのものではない、
そう思うと、ちょっと嬉しかったのを、今でも覚えている。

修学旅行。
中学校のときの小遣いは5千円だった。
半分ほど使い、じいちゃん達にもお土産を買った。
二度と、同じ涙を、母には落とさせなかった。



テーマ:感謝! - ジャンル:日記

2007.09.20 | | Comments(2) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.48 こんなバカにはなりたくねえ!

 頭はは悪いのに 頑張りすぎて間違ってQ大に入ってしまった。
そこから始まり。

 教育学部は1学年35人。
新入生歓迎コンパには、全学年から参加があった。

学部4年の大先輩が、歓迎の挨拶をしてくれた。
「学部卒業史上最高の初任給を取るぞ!」と。

 当時、グループダイナミックスという学問が、企業の人事管理に受けていたらしく、その先輩が息巻いた。
拍手が起こった。
おれは、しらけた。

 こいつら、バカや!

 国立大学、貧乏でも国民の税金で勉強させてもらえる…。
それなのに、自分の食いぶち、立身出世のことしかいわない・・・「こいつらバカや!」強烈にそう思い、失望した。

 あれだけ、寝ることさえ惜しみたどり着いたところが、こんな世界か!?
  
 島の同級生の3分の1が集団就職で、都会に行った。みんなで見送った。船が水平線の彼方に見えなくなるまで。15の少年少女を、親もじいばあも、友達も先生も、皆泣きながら…。

貧しかったり、親が病気だったり・・・。 島には4つも公立高校はあったんだぞ。それでも・・だ。

 一緒に勉強してた頭のいい奴がいた。マサタカ・・・小さな農家で、母ちゃんが精神病で・・・いしょに勉強してたのに、集団就職の船に乗った。

 こいつらのことを抜きにして、なんで自分の給料のこと言うんか!

 それが始めて物を考え出した、俺の青春の始まり。

こんなバカにだけはなりたくねえ!その時から、なんのために、俺は大学に来たのか、何を学べば良いのか!?

 初めて自分に向き合った。
青春の入り口。

 

2007.09.04 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.47 ニキビ面の劣等感。

 思春期は劣等感に覆われている?

 おおらかと言うか、のんびりと言うか、そのままと言うか、15の春まで種子島で育った。

 まじめで働き者の父と母、兄妹4人。私は百姓の次男。
 別に特別に将来に夢も持ったこともない。年子の兄貴がスポーツ万能で、中学の時は兄貴のあとにくっついて、柔道部にいた。(こう見えても結構強かったんだぜ)

 兄貴は柔道で身を立てるため、その道の鹿児島の一流高校に進学した(華々しく全国制覇一歩前までいったよ。弟は全国制覇!)。俺は気が弱く、おとなしく、なんとなく一人で勉強するのが好きで、ちょっと成績も良かった。

 親は、農業を継げとか、何も言わず、好きなことをやれと言って、貧乏をしながら、俺を、鹿児島の進学校に行かせてくれた。

 のほほんと種子島でやっていたし少年は、初めて、壁にぶつかる。
島では特に勉強をしなくてもトップ周辺なのに、高校に入ったらなんと450人中400番。少しずつ見えてくる。自分がどんなものか。

 島から来たから友達もいない。
孤独と劣等感。それにホームシック。ついていけない授業中、窓から失対(失業対策の官公需の仕事)のおばちゃゃんが、校舎の横の草むしりをしてると、母を思い出だし涙が出てきたものだった。

 鹿児島は教育立県を標榜し、すさましい受験教育をしていた。
我が高校は新設校で、今考えたら、よくもあんなことしたなと思うぐらい。。
 450人9クラス。50人はトップクラス。次の100人が準トップクラス2つ。あとは、バカクラス。

 準トップクラス以上から国立大学に何人通すか、これが最大の教育目標。勿論、バカクラスの俺たちはおとなしく卒業してくれれば良いだけ。

 いじけるよな。初めて、劣等感と言うものを味わった。

 自分がどうしたいと言うよりも、親をガッカリさせたくなかった、それが一番だった。母は、俺が小学4年の頃、当時田舎では大学に行く人は誰もいなかった頃、百姓をしながら、どんな苦労をしても「この子は大学に行かせたやりたい」と決めたそうだ。(あとで聞いたのだが)

 当時4当5落と言った。4時間しか寝ないで頑張れば通る、5時間寝れば落ちる。俺は、体力にまかせ寝ないで3年間頑張って、間違って、30番~50番ぐらいになってしまって、Q大に受かってしまった。

 友情なんか培うゆとりもなかった。それでも、島出身の何人かと心許す友達にはなれた。

 何を書きたかったのか忘れた。
劣等感にさいなまれ、それでももがききった、ニキビの少年。

 また、あの時の俺に会いに行こうと思う。



 
  

2007.09.03 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.46 青春の六本松。

ここんとこ3,4日、まともにお陽さんが顔を出さないと、さすがに涼しい。

 六本松を思い出した。
ちょっとセンチになっている。
あの狭い何もないキャンパス。我が青春の六本松。
普通一年半で通過するそこに、俺はさまよいながら、2年も留年し3年半もいた。
もっとも、大学にはほとんど顔を出さなかったから、六本松周辺に3年半と言うことだ。拠点は、田島寮。

 そこで得たものは、友と、生き方の指針。それと、教育学部進学のためのぎりぎりの単位。

 頭悪くてどうしようもなかったのに、体力に任せて受験勉強をし、間違って合格してしまった。場違いなところにきてしまい、自分の居場所も見つけられず、ひたすら劣等感とどろどろとつきあった。

 そんな俺にも友と呼べる奴が出来、「何のために学ぶのか、時代をどう生きるのか」幼くも、必死にもがきあった。

 学費値上げ、ベトナム戦争、水俣、オイルショック・・・時代が生き方を問い詰めてきた。

 初めて自分自身が生きることを正面から問うた、まさに青春。今や、ちょっと甘酸っぱいかもしれない青春。青春は、常に友とあり。

 最近、学生の実習生が来てるので、どうしても自分の学生時代を思い出してしまう。
 直接の音信はたまにしかないけど、いまでも俺はあの頃のあいつらと生きている。

 優秀な奴が多く、俺なんかちっぽけ過ぎて、でもなんでか、皆俺の貧乏な生き方をほめてくれる。この間、先輩が「大脇君を見ると応援しなきゃっておもうもんな」といってくれた。

 居場所のない劣等感を乗り越え、自分を好きになりかけたのもあの頃。
あんなに優秀な奴が一杯いたのに、悩みこんだら、そいつらの所に相談に行けばいいのに、みんな俺の部屋に来て一緒に、焼酎を飲んでいた。一著前に、「きょうのしごとはつらかったあ、あとはあ、焼酎をあおるだけえ」と、岡林の山谷ブルースを歌いながら…。

 その頃から、俺は何にも出来ないけれど、一緒に悩むことだけは出来るな、と思った。俺みたいなあほでも、健気に生きていれば、誰かの力になることも出来る。

 そのことを体で知ってから、俺の自覚的主体的人生が始まった。

それが、六本松。
友が教えてくれた、俺の生き方。
今、自分の顔で、ここにいる。
 
おーい、おっさんおばさんになった友よ。飲もうよ!



 

2007.09.03 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.26 夏休みの「絵日記」

 いまどきの夏休みの宿題に、絵日記を毎日つけるというのは、ないようだ。

 小学校の、毎日の「絵日記」には、本当に、苦労した。

 ひとつには、貯まってしまい、思い出せないのである。これは、誰しも同じだったろう。
 もうひとつは、書くことがないのである。

 野良仕事に連れ出され、合間をぬって必死に遊んだ夏休み。とにかく、単調で毎日が同じなのだ。仕事の手伝いも、遊びも一通り書けば、もうネタが無くなるのである。

「にいちゃんと、いそに、もぐりにいきました。イセエビを10ぴきとりました。はらがへっていたので、すぐにひきさいて、塩水につけて食べました。うまかったです。それから、流木で火をおこして、やいて食べました。とってもうまかったです。家には、6ぴきもって帰りました。お父ちゃんがびっくりしました。お母ちゃんが、ゆがいてくれて、家族みんな1ぴきずつ食べました。えびをとったのは、にいちゃんで、ぼくは、運ぶ係りでした。」
とか、特別に大漁だったらまだしも・・・。(禁漁期間でも、こどもたちは、練習とみなしたのか、おとがめなしだった。)

 ある時、私は、「今日は、書くことがありません。きのうと同じでした。」と、何日分かを、溜め込んで書いていた。夏休みの終わり、母が一通り、チェックを入れたとき、怒られてしまった。
「よく思い出して、なんかあったろうが!?」
 ・・・「先生が、書くことがなかときゃあ、こいじぇよかっちゅうた!」と、抵抗した。

 そんな先生が実際にいたのだ。
「種子島の子は、かわいそうだ。夏休みになったら、朝から晩まで百姓の加勢だ。都会の子は、学校にもいかんで、ほんとの休みなのに・・・おまえたちは、夏仕事じゃあ」と。何年のころの先生だったか記憶は、定かじゃない。

 ふだんはおとなしく、従順な私が抵抗し、先生の話をすると、母は「そうじゃなあ。」と、あきらめ、「わごう(おまえは)正直じゃあ」とため息をついた。
 あの時母が、「もっとしっかり見てみなさい、同じ日があるわけないでしよ!」などと、教育していてくれていたら、私は、暮らしをもっと深く見つめ、描けるリアリズム作家になっていたかも知れないのに・・・。(ナンチャッテ!)
 私は、平凡な「正直者」になることとなった。

 ともあれ、夏休みの「絵日記」。いまは、懐かしきかな。

 

2007.08.18 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.25 遊びは、全力。ハンパな根性では遊べないぞ!

 朝から晩までこき使われて、好きじゃなかった夏休み。
それでも、必死に遊んだ夏休み。その根性は半端じゃなかった。

 種子島では、11時から3時までは、大体田んぼには出なかった。熱すぎて仕事にならない。今時の、熱中症予防と同じだろう。
その間、昼食を済ませ、大人たちは、木陰の涼しいところで、縄をなったり、家のことをしたり、昼寝をしたり・・・。

 こどもたちは、チャンス!
裏山に蝉取り、カブトムシやクワガタとりに、川にフナつりに、海に潜りにいったり・・・。野良仕事を手伝う力とは違ったところから、遊ぶぞーっというエネルギーが湧き上がってきたものだ。

 島の最南端の水田地帯、その先には原始林の防砂林があり、そのうっそうとしたトンネルを抜けると、太平洋。はるか彼方の水平線は、弧を描き、地球の丸さを見せていた。家から波打ち際まで1キロもなかった。
 東側にははるか竹崎(今、ロケット基地があるところ)まで白い砂浜。西側には、すぐ近くに鉄砲伝来の門倉岬にいたる磯。

 学校とか町とかが「遊泳禁止区域」なんて野暮なことは言わない。(そんな時代じゃなかったのだろう)
そんなことは、自分たちで判断して決めるものだった。
浜のほうは、遠浅ではなく引き潮が強く、大人から「絶対入ったらいかん!」と教えられていた。どんな悪がきもこれだけは守った。
 海の恐ろしさや、自然とかかわる知恵が、共同体の暮らしの中で伝えられていったのだ。
 
 目指すは磯のほう。長瀬、高瀬、・・淵、ひとつひとつ名前がついていて、そこの海の特徴も教えられていた。波の穏やかなところで遊ぶ。大人はいなくてこどもだけで。しかも、小学校低学年だけとか・・・。手ごろな淵で、泳ぎの練習をする。
 泳げるようになると、素もぐりで、魚を突いたり、イセエビやトコブシを獲る。
 
 今思えば、なんと危ない。こどもたちだけで、太平洋に。
プールなんて見たことも聞いたこともなかった頃。
 しかし、種子島に住んでいた15の春まで、土地のこどもが、海の事故にも川の事故にもあったという話は、一度も聞かなかった。(もっとも、私は中1の頃、一度だけ溺れかけて兄に助けられたことがあるが)

 とにかく、誰も外に出ない炎天下、必死になって遊ぶのである。
親は、「3時にどこそこの田んぼに来い」というだけだった。
 そして、太陽を観れば大体の時間はわかるので、そこに行き、また仕事である。

 夕方になると、こどもたちは早めに家に帰され、家畜の世話やらいろいろ言いつけられる。暗くなる頃母親が帰り、晩飯の頃にはもう、もうへろへろで、上のまぶたと下のまぶたが、くっつき始める。
 その前に、蚊にさされながら、上がり框ではいつくばって寝てしまうこともしばしば・・・。
 そんな毎日が繰り返されていた夏休み。

「遊びをせんとや、生まれけん・・・」
遊びはこどもの仕事とはいえ、思えばすさましいもんだ。山に川に海に、遊び方は変わっていったが、あのエネルギーはどこから出てきたのだろうか。もし、野良仕事もなく、十分な時間があったら、あれだけの執念を燃やして、遊んだろうか?

 あの暮らしが、あの少年時代があったから、あの夏休みがあったから今の自分がある。

 


2007.08.18 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

NO.24 夏休みなんか、好きじゃなかった。

 夏休みがいやだったという話は、まだ聞いたことがない。
夏休みは、楽しいものと 世間の相場では決まっている。

 今は、気ままに自分の時間が持てて、それなりに楽しくもあるが・・・。

 こどもの頃の夏休み。
 種子島は、日本で一番早く米が収穫される地方だ。たぶん、台風銀座とよばれた南西諸島では、台風シーズン前に、収穫を終える必要があったからだと思う。

 機械化が進んでいなかった当時の農家では、こどもといえど、一人前の労働力だった。夏休みに入る頃、何の因果か、ちょうど稲刈りが始まる。こどもも、小学生になれば、それぞれに鎌を持って稲を刈ったり、その束を運んだり・・・手はいくらでも必要とされ、役に立った。

 ラジオ体操が終わってから、夏の長い日が落ちるまで、家族とともに田んぼに出る。さぼるなんて、できやしない。広く見通され、ボケッと突っ立っていようものなら、「こら、馬をつなぐぞ!」の声が飛ぶ。

 盆までに、脱穀まですませ、新米をご先祖様に供え、家族で食べる。

 盆に少し休み、こんどは、サトウキビ畑とサツマイモ畑の草取り。両親が両脇の、こどもたちがその間の畝を、それぞれ一畝ずつ配置について、草をとり進む。遅れそうになると、親が手を出して、横一列を保った。
 サトウキビ畑のときは、うっそうとして親の目が届かない時があり、そんな時は、こどもらしくズルをする。草はとらずに、親より少し遅れて歩くのだ。

 そして、夏休みが終わりに近づくと、溜まりにたまった宿題でゆううつになる。

 そんな夏休み。こづかいが貰える訳でもなし、時々、チリンチリンと自転車で回ってくる、アイスキャンディだけが楽しみな・・・。草取りのとき、畑の完熟トマトがうまかった、ぐらいな・・・。

 夏休みが来るのがいやだった、と言うほどでもない。それが当たり前の暮らしだったから。でも、楽しみに思ったことはないし、好きじゃなかった。

 

 

2007.08.17 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片

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