大晦日です。この冬1番の寒波です。
裏山の背振山が、薄く雪をかぶっています。
人を探しています。こちらをどうぞ→
岩田和輝君捜索願横浜市の障害を持った12歳の少年です。早く見つかりますように。
信君のことについては、今年のうちにまとめておきたい。 これまでのことはこちら
→過去ログを参照。信君は、私の助手として
陶芸教室のお世話をしたり、仲間達のお兄さん的役割を果たしたり、自分のろくろの修行をしたりと、それまでとは違う立場で参加する日々を送っていた。
ところが、お父さんの退職を機に又新しい選択が求められた。父親は
退職して、郷里の雲仙に戻り農業をするという。
そこで、信君も一緒に行き、農業を手伝う傍ら、
陶芸を続けることになった。
本人もさんざん悩み、親御さんも私たちも悩みながら話し合いを重ねた。
今の形でゆっくりと次の
一歩を探ろうという私の思い。
親御さんや本人の不安・・・。
どうしようもなく先の一歩が見えないときも、踏み出さなければならない時がある。生身で生きていくと言うことはそう言うことである。
98年の3月を限りに、彼は陶友をやめて父親とともに雲仙に引っ越した。
その年の10月、仲間の旅行は「雲仙島原方面」に決まった。
仲間達が決めたのだが、職員のかなり意識的な「誘導」もあった。
信君に会いに行こう、である。優しい彼は、仲間達にも慕われていた。
たまたま、もう一人無認可時代の仲間N君も、島原に転居していたので、2人の友への再会の旅と言うことになった。
後ろに普賢岳、眼下に不知火海、山の中腹ののどかなところであった。日焼けした彼は、いくらかたくましく成ったように見えた。
古い家で、みんなでお茶をいただき、あの何とか豆腐(名前を思い出せない、つるんとして美味しいあの豆腐、なんだったっけ?)をいただき、休憩を取った。
敷地の奥には、小さな窯が据え付けられていて、ろくろがあった。
細々とながら、ろくろをひきながら暮らしている様子が、切なかった。
陶芸が好きでも、唯ろくろをひけば満足できる物ではない。そういう自分をどう社会と結びつけていくことが出来るか。
「
陶芸教室もしているが、田舎なので・・・」と彼なりに頑張ってはいる。
しかし、彼の技量と田舎という条件は、その先をなかなか見せてはくれないだろう。
そう思うと 切なかった。
彼は、気遣ってくれたのだろう、案内をかねて、1日付き合ってくれた。手元に写真がある。
雲仙の温泉の湯煙をバックにした、その時の集合写真。
信君はぽつんと後ろにいる。仲間の顔ではない。
寂しそうに、不安そうに、静かに立っている。
空気が違う写真を後で合成したかのようだ。
その後は、陶友時代に、彼の十八番で売れ筋だった作品を、こちらから発注し少しでもお金に換えてあげれるようにしたりしながら、細々としたつきあいが続いた。
時々、あの美味しい何とか豆腐や、特産のジャガイモを送ってもらったこともあった。
去る者日々に疎し、である。殆ど音信もなくなった。
先日、数年ぶりに、発注の電話を入れた。
お母さんが「今はもう、
陶芸はしてません。」という。
?・?
「愛知に行って季節工で働いている」という。自動車関連の日雇い労働をしているそうだ。
社員を
派遣に切り替え、下請け孫請けを支配することで、世界のトップに踊りでたあの自動車会社の関連だ。
仕事があるとはいえ、明日をも見えない「ワーキングプア」として、彼は働き、生きている。世の中という物はなんと過酷なのだろう。
信君の日々に、
笑顔はあるのだろうか?
明日という、
希望はあるのだろうか?
友達はいるのだろうか?
「明日がなければ、人間らしく生きることができない。」
「ひとりぽっちでは、人間らしく生きることができない。」人間発達研究所の田中昌人はこのように述べている。
関心のある方はこちら→
過去ログ「人間らしさについて考える」をお参照。先日の陶友祭には、お母さんがわざわざ、挨拶に来てくれた。一升瓶を下げて。
信君は、この年の瀬をどこで、どんな思いで迎えているのだろうか。
寒さが身にしみる。
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テーマ:障害者の自立 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.12.31 |
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信君のこと(3)
私は、事を具体的に進めた。
正式に、雇用形態は取れませんが、「俺の助手ということでどうか?手当ては月5万円。」
「仕事はこれまで通りに自由に作品つくりをしていいが、
陶芸教室の指導に入ることと、陶芸班の仲間の朝礼終礼などを援助すること。」
知的な障害のない彼には、色々とこざこざした用事も頼むことが出来た。
彼は「お兄さん」的に仲間たちと関わるようになった。
陶芸教室は当時週に2コマ、水曜は昼間だが、木曜日は夜9時までで、帰り着くのは10時半になった。
ただの居候敵存在ではなくなり、彼は、日に日に明るくなっていった。
教室の人に教えながら、人と関わることも増え、そう言う面でも彼は自信を深めていった。
作品つくりの方も、当時陶芸のボランティアで来ていたT氏にお願いして、本格的に轆轤(ロクロ)を教えてもらっていた。
そうこうしながら、信君は見違えるように、落ち着いていった。
問題の手当てだが、5万円は陶芸教室の受講料収入から出すことが出来た。
信くんが、陶芸教室の有償の講師という事だ。
これは、施設会計とは別で、応援団の事業活動の一環だったので、そういう自由な支出が可能だった。
陶芸教室に関わることは、彼の精神衛生上も特にいいいい効果をもたらしたようだった。
普通に人と一緒に活動をし、交流する。
教室の人たちにも事情は理解してもらっていたので、優しくしてもらった。
ロクロの腕も日増しに上達していた。
このまましばらく進めば、精神的にも安定し、力もつけ(特に対人関係の)、就職に挑戦する日も来るだろうと、私は安堵していた。
・・・しかし、問題はそう易々とは片付いてはくれない。
一歩進めば、また新しい景色が見え、また新しい山があります。
次の課題がそびえていました。
話しは横道にそれますが、陶芸教室の話なのでついでに。
陶芸教室は、今は細々ですが・・・。
当時は気合を入れてやってました。(いや、今いい加減ということはないと思いますが・・)
地域の子どもたちや、PTAのお母さんたち、色々な団体のレクレーションなど、
結構にぎわっていました。
それは施設の地域開放と交流のための役割と共に、
貴重な自主財源つくりの活動でした。
建設費のうち、社会福祉協議会に借りた500万円とその利子は、
10年かかって、この教室の受講料収入できっちり完済出来ました。
借金からは解放されました!
ひかり後援会や法人に頼らずに、作業所の資源を活用して自力で返済できたことは、気分的にかなりスッキリしたものがあります。
(この自力返済ことは、法人や関係者の中でも余り関心ももたれず、知られていないと思います。金がない金がないと言えば、知られますが・・・。だからスッキリ・・・かな?)
なかなか思うようには行かないものです。信くんはどうしても止めなければならなくなり、次はお別れについて書きます。・・・ ポチッと応援して下さい。 ↓
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2007.12.25 |
| Comments(8) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
信君のこと(2)
何のことはない・・・気を使って、肩身が狭かったのです。正式な利用者じゃないのに・・・と。
いや、本人にとっては重大なことです。
「いいじゃない。給食代は払ってるし、手伝ってもらってるんだから・・・」
なかなか納得してくれません。
何のことは無いなどとは、浅はかな私の読みでした。
ことはそう単純ではありませんでした。
「いつまでも稼げずに、家族に迷惑をかけている」ということこそが、大きな問題でした。
・・・そんなこと言ったって、就職できないんだから仕方ないだろう・・・なんて言えないもんな。
そこでまた、相談しました。
親御さんは、とてもまじめで一生懸命で、「そんなことは考えなくてもいい、好きな陶芸を楽しくゆっくりやればいいじゃないか」と言いますが、本人にとってはそう言うわけには行かないのです。
30過ぎて、親に寄りかかり・・・そういう自分を受け入れきれないのです。
みんな、そういう自分に又悩み、堂々巡りをしてしまうのだと思います。
・・・どうすればいいのか?
どうすれば、信君は、その重さから解放されることが出来るのか?
これには、悩みました。
ああ、金さえあれば、補助職員にでも採用という手もあるのだが、とてもじゃない。
こういう時は、ほんとに金が欲しくなり恨めしくなります。
「やっぱり、世の中金だよなあ」・・・。
「自分としては、大体どれぐらいあれば、とりあえず、親の世話になってるという気持ちは納まるのか?」
単刀直入に聞くしかない。
交通費(遠くから来ていたし、市外からで割引もなくそこそこの金額だった)、給食代、自由になる小遣い銭・・・、なかなか自分から言い出せる立場ではなかった。
「5万だったらどうや?」こちらから言うしかなかった。・・・遠慮しながらも、それぐらいなら何とか、という事になった。
さて、何処にそんな金があるんや?
彼が「世話になってる」気持ちを少しでも楽にし、自分の働きで稼いだといえる金が。
金は作るもの。
見通しなく「5万」なんて数字を挙げることは出来ませんから・・・。(つづく)
3行日記・2007.12.23(日)寝袋での2泊を終え、残りの蕎麦を打ち、だらだらと夕方帰宅。長女と三女のために蕎麦をゆでる。「久しぶり!」と喜ぶ。残りは夜勤明けの次女用。おっかあと四女は実家。「M1グランプリ」観ながらうとうと。娘たちは好きなようだ。一人で飲む気もせず、もう寝るわ。
「世の中金だよなあ」と思うことってありますか?・・・ ポチッと応援して下さい。 ↓
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2007.12.23 |
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歴史(27)
ここで、信君(仮名)のことに触れておかなければなりません。
彼は無認可の2年目の途中から仲間になりました。
精神障害の30歳代の青年です。知的障害はありません。
細かな診断名については不明でしたが、比較的軽い統合失調症とうつのようでした。
服薬しながら、コントロールに努めていました。
就職に失敗して、家にいましたが、「陶芸を習いたい」と、陶友に来ました。
絵も好きだといっていました。
おとなしく控えめでしたが、仲間たちとも仲良くやってくれました。
当時、認可施設に移行するということは、「知的障害」がないと、利用できなくなるということでした。
縦割り行政の犠牲です。
(現在の自立支援法では、障害種別は問われませんが、当時は、種別の施設でしたから。だからと言って自立支援法が良いという事ではありません。同法については、応益負担が本質的な問題です。私の基本的な考えはこちらを参照下さい。→過去ログ「応益負担は許さない!(1)(2)」)
ほんとに黙々と一人で作るのが好きな青年でした。
認可になると「僕はやめなければならないのか?」彼は悩みました。
そのまま打ち明けて相談してくればよかったのですが、一人で抱え込んでしまっていました。
調子が悪く暗い日が続き、やっとそのことに気がつきました。
どうしたらいいのか?
制度的には、利用は出来ないのです。
制度が無いからと、切る事は出来ません。
必要と求められ、一緒にやってきたのです。
そこで私は、「ボランティアで手伝いに来る」という形にして、これまで通りに陶友に来られるように提案し、了解を貰い、来られるようにしました。
新築開所の最初の頃は、それで、特に問題もなく過ぎました。
しかし、だんだん作業所が落ち着くに従って、また彼の調子が悪くなって来ました。
お母さんに聞いても、どうも原因がよく解りません。思い当たらないというのです。
思い切って正面突破、直接聞き出すことにしました。
聞いてみれば、成る程です。又次には次の課題があるものです。(つづく)
3行日記・2007.12.21(金)今年最後の窯詰め完了。雨のため、バイクで帰るのは・・・と思いつつ、陶友通信版下つくり。年内には届けられる、安堵。が、バスもなくなり、諦めて今日は泊まり。明日は本焼きしながら蕎麦うち忘年会。40人は来るかな?飲み過ぎないように固く決意!
冬の雨には珍しくしとしと しとしと降ってます。・・・ ポチッと応援して下さい。 ↓
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2007.12.22 |
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歴史(26)
希望に満ちた船出、前途洋々?
毎日楽しく土こねて・・・、人間そんなにおめでたく単純ではありません。
仲間15人。少ないようですが・・・。
作業は陶芸だけでしたので、はっきり言って上手く行きませんでした。
作業がというより、仲間関係が。
それまで無認可の頃は、少人数に加え、陶芸の経験があるし、仲間たちはそれぞれのかかわりあい方、お互いの距離・・・さまざまな面で、落ち着き、それぞれの居場所、立居地を「完成」させていました。
集団が安定していたのです。
一人迎え、関係を作り、また一人迎え・・・でしたから、無理なく受け入れながら、自分たちの関係を作って来られたのでした。
しかし今度は、一気に倍近くになります。
これまでの集団は、この変化に対応できず、グッチャグチャ!の「無政府状態」になって行きました。
「○○さんがうるさくて、集中できない」
「XXさんが、私に・・・言うからいや」
「○が、だれそれにプレゼントして、僕にはくれない」
「だれそれがおるけん、気に食わん、やめて欲しい」
・・・物言える仲間も、いえない仲間も・・・。
毎日毎日、トラブルばかり。
(え~くそ!うるさか、バカチンどもが!)
あの楽しかった無認可時代がなつかしく、疲れる毎日が続きました。
個人的には、精神的に最も重苦しいい数年が始まったのです。
容れ物の美しさとは逆に、中身は、最低。
・・・こんな筈ではなかったのに、なあ。
(怒りとばして、管理すれば納めるのは、表面上は簡単だが・・・)
「家が人を作る」?・・・つくらなければ。
お互い顔を合わせて日が短いこと。
作業集団が1つであること。
空間が1つであること。
そもそも作業になじみきれないこと・・・。
・・・。
原因は、単純ではありません。
先ずは仲間たちの小集団化をすすめること、新しい作業を開拓すること。
試行が続きます。
3行日記・2007.12.20(木)平凡な1日。仲間達は、忘年会の件で喧々諤々。結局、買出しをして陶友でやるらしい。福祉保育労時代の知人来る。保育士辞めて、又職探しとの事。40代後半、大変だ。子育ての事で話し弾む。いずこも親は大変。ありがとう、又来てね、Kさん。ヒロコも穏やか。
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テーマ:ああ、よかった - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.12.21 |
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歴史(25)
資金つくりではホントに苦労しましたが・・・。
1円たりといえども、貴重な支えです。貴重な出会いです。
大事なのは金額ではなく気持ちです。
「お一人お一人、この気持ちに応える。」
つながりのきっかけを大事にし、もっとつながりを深めたい。
仲間たちのことをもっと知って欲しい。見守り続けてほしい。
名簿化された人たちに「その後」をきちんと報告するように、「陶友通信」を発行しています。
現在ダイレクトメールで2400部ぐらい。地域配布も含めて3000部印刷しています。
お金はかかりますが、「心を結ぶ」大切なものです。
参考までに→「陶友通信」は、こんなものです。
近いうちに、バックナンバー全てをUPする予定です。
この通信が、その後の陶友の歩みにとっても、大きな力になりました。
設備改善とか増築とか、資金つくりの面でも、気持ちの面でも。
後に増築の必要があり、通信だけで呼びかけてお願いして、
4ヶ月で350万円以上の募金を、読者の皆さんから寄せていただいたこともあります。
仲間たちのことを知ってもらうこと。
とにかく知ってもらい、力を貸してもらおうと、発行を続けてきました。
私は、書くことが好きです。
上手くなりませんが・・・。ほんとは手書きのほうが好きなんですが。
若い職員たちには、とにかく書くように言ってるんです・・・。
書くことを通じて、自分の考えや理解が整理される。
増してや、伝えることを前提にした文章は、である。
その際、「相手を具体的に想像して書くこと」・・・一般的な読者じゃなくて、友達でも誰でも、「このことを、あの人に」知って欲しいと思って書くこと。
「ラブレターを書くつもりで書かないかん。
ただ書けばいいというものじゃいかん。
ラブレターは、その手紙で相手の心をつかまないと、意味ないだろう?」と。
(あれ?最近は恋もメール?味気ないよな。俺、メールなんかは、「わかった」とか「ok」
とかだけで「もっと色気のあるメール打て」なんて言われてるけど・・・、もっとも、メールも電話もケータイには1日1本ぐらいしか来ないけどぉ。(ははは)
「陶友通信」、これからも心を込めて、発行していきます。
ブログ読者の皆さんも、今後発行するたびにブログで紹介しますので、
どうぞ、ご愛読下さい。今日もポチッとよろしくお願いします。 ↓
テーマ:みんなに紹介したいこと - ジャンル:ブログ
2007.12.19 |
| Comments(4) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
歴史24・認可
建物つくりが終点ではありません。それは新たな始まり。
「家は人が作る、が、また家は人を作る」
建築家佐藤千澄氏の家つくり哲学です。
後日、氏は
「この建物に変わって、仲間たちが良く会話し明るくなってきたみたいで、僕は嬉しいねえ。ここで愛情を持って過ごし、是非みんなそれぞれに成功して欲しいな。」といわれました。
「ひかりと出会って6年。ひかりの仲間たちに出会ってから、僕は、人に対して自分を素直に出せるようになった気がするんだ。それが自分の人生や仕事にプラスになっているような気がする。だから仲間たちのことをたくさんの人に知って欲しいんだ。」
・・・その後も、佐藤さんはたくさんの人を陶友に連れてきてくださいます。
そして、今も陶友応援団「ゆうゆう」の団長として、ご多忙な中で、陶友と仲間達を支えてくださっています。
さて、いよいよこれからです。
仲間15人、職員6人の、小さな小さな作業所が、
「日本一の作業所」をめざして、再出発です。
4月6日、仲間、家族、職員だけの入所式。
4月14,15日と2日に分け、落成式典と祝う会。
資金つくりも大変でしたが、実は、所長としてはこれからが・・・。
新しい仲間たちを、どう迎え支えて行くのか。
いよいよ本番の「苦闘の日々」が待ってました。
ちょっと、余談ですが・・・
陶友の囲炉裏の横の戸袋には、一升瓶を立てて入れるところがあるんよ。床なしで地面までの。設計段階で、佐藤さんと一番先に「合意」したところ。
「たくさん人が集まったら・・・やっぱり・・・」なんて。あとから、「工房よりも、酒房か居酒屋作りたかったんじゃない?」と言われてますが・・・。(ははは)
ちょっと、見に来てんしゃい。「アホが何ば考えとっとや!」って怒られるかも・・・。
すべては、陶友の発展のために。すべては、仲間達のために。
私もも飲めない酒を、努力して段々と飲める様になって行くのでありました。(?)
おい。クリ、りょうこ。この苦難と創造の事業、感動のドラマに、なんかコメントぐらい書かんか。
この忙しかとに、お前達のために書いとるようなもんや。ちゃんと、歴史を学んで感想を。次代を担う覚悟はあるとな。さびしかやんか。このエントリーには、みんなノーコメントやろ。
・・・一般読者の皆さんには、内輪の話で申し訳ありまっしぇん!お聞き逃しくださいませ。
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テーマ:障害者の自立 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.12.18 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
歴史(23)分場時代へ。
また、陶友の歩みについて書いていきます。これまでの分はこちらです。→「陶友の歩みと出会い」
1月28日の上棟式以来、工事も資金つくりも順調に運びました。
そして、1995年3月末には完成引渡しが行われ、引越し作業を経て、
4月1日、「ひかり作業所 分場 工房 陶友」として、新たなスタートを切ることが出来たのです。
総額2720万円に上る事業でした。
わずか1年足らずで資金つくりも達成することが出来ました。
Tシャツ販売やバザー、コンサートなどでの収益が500万円、社会福祉協議会からの借金が500万、一般からの募金は名簿化されただけで1700件以上でなんと、1720万円!
「お金がないという人と契約したのは初めてだ」という佐藤さんにも悠工房さんにも、
約束通り期日までに支払いを完了することが出来ました。
・・・ほっとしました。
当時の陶友通信は、新しい作業所を次のように紹介しています。
欅のシンボルツリーのある駐車場から、木造瓦葺、漆喰の白壁のすっきりと落ち着いたたたずまいが望めます。明かり窓越しに天井の梁が見えます。格子窓が表情を優しく引き締めます。
スロープを上がって、広い寄付きから玄関の引き戸を開けると、そこは作品展示室と食堂、奥には厨房。
右手には囲炉裏を囲む談話室と作品展示コーナー。
三和土(タタキ)の土間を右奥に進むと作業室とまたその奥には窯をすえた焼成室。
作業室の表は、広いひさしの下にバンコを置いたピロティー。
食堂から裸階段を上がると、2階は職員事務室、更衣室等のスペース。勿論トイレは1回にも2回にも男女別々にあります。
天井、壁がなく、空間は吹き抜けて自由につながりあっています。
たくさんの窓がすがすがしい風を呼び込み、天窓からは障子を通してやわらかな光が降り注ぐ・・・そして木の香りが一杯。
みなさん、「料亭みたい。」と言います。
日本中探しても、こんな「障害者施設」はないでしょう。
仲間たちの願い、職員の想い、多くの人たちの共感と支えが、一つの形になりました。
「本物」の形です。
お陰様で仏は作りました。さて次は、魂を入れる仕事です。
中身つくりの仕事は、これはまた大変なエネルギーを必要とするものでした。
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テーマ:ああ、よかった - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.12.17 |
| Comments(2) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
思い返せば、冷や汗物でした。
佐藤さんは、出会ってから、私をいろいろな人に紹介してくださいました。
私は気持ちはありましたが、まだ若くて人脈が・・・。
私が福岡市の美術展で、市長賞をもらった時は、お祝いのパーティーを開いてくださいました。
佐藤さんの知り合いの方たちに呼びかけて、ですよ。
殆ど知らない人たちばかり・・・。3~40人ほど。
私を紹介するために、わざわざ。
当日は鹿児島で仕事があったのに、とんぼ返りで帰って来て、主催してくださいました。
恐縮するばかりでした。
そのうち、主だった方を10人ほど集めた飲み会に招待されました。
この席が良くなかった。
ライオンズクラブの会長や、中小企業家同友会の支部長を経験された佐藤さんの、もっとも親しい人たちに紹介していただく場だったのだが・・・。
皆さん、一回り上の方たちばかり。
緊張と恐縮で、ちょっとネガティブな発言をしてしまって・・・。
酒がまずくなりました。
「なかなか面白い奴がいるぞ。皆で応援してやろうじゃないか。」
と呼びかけてくれた、佐藤さんの顔を潰してしまったのです。
「何や、つまらん奴じゃないか!」と。
私としては、新しい作業所建設の見通しに自信満々でもなかったし、
自分のペースではないこのような運びにも、十分に乗り切れなかったと言う事もありました。
それでも、佐藤さんの計らいで数人の人と一緒に、二次会まで誘っていただきました。
ほんとに落ち込んでしまいました。
酒の席って、空気の流れを変えきれないって事あるよな。
そんなにネガティブじゃなかった筈なのに、そういう方向に流れてしまった、
そうしたら修正が効かなくなって・・・って感じでしたから。
・・・しばらくして、汚名返上の機会がやって来てました。
このとき二次回に参加していた方が、例のワイワイコンサートに、来られたのです。
当たりでした。
あの、楽屋裏で焼酎引っ掛けて、羞恥心を振り切り、ステージで吼えまくったパフォーマンスが受けたのです。
後で聞くと、「つまらんやつだ!」と思っていた方が、
「こいつ、なかなか面白い奴じゃないか?!」と思い直したそうです。
汚名返上です。
ほっとしました。
酒で失敗し、焼酎で挽回!?
それから、支援の輪の再構築が急速に進められたのでした。
出会いと言うものは、不思議なものです。
それまでまったく知らなかった人たちが、障害者の作業所について関心を持つようになり、
それを、応援する取り組みに参加してくれるようになったのです。
有難い事です。
今も、このときの方たちには、折々に声をかけていただいています。
読んでいただきありがとうございました。
2つのお願い1)よろしければ、一言でもコメント頂ければとても嬉しいです。(右下Commentsをポチッとどうぞ。小さくて見にくいですが。)2)沢山の人に読んで欲しくて、ブログランキングに参加中です。
おかしか話やろ?今思い返しても、冷や汗が出そうやばい。
あの時、コンサートでもなけりゃ、どげんなっとったとかいなね。
酒は、両刃はの刃!皆さんも、呑まれんごとね。ははは。
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テーマ:いま想うこと - ジャンル:日記
2007.12.09 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
無認可時代(13)
不思議でした。
なぜ佐藤さんが設計の仕事を引き受けて下さったのか。
私の認識は、設計をお願いしに行ったわけではなかったので・・・。
佐藤さんはその3年ほど前に、たまたま日曜日、新聞を読んでいたそうです。
そこにひかり共同作業所がリヤカー引きながら、廃品回収の仕事をしている記事があり、目に止まったのだそうです。
感じたことがあれば、即行動の人です。
ひかりを訪ねたそうです。
そして何か手伝えることはないかと申し出たそうです。それ以来の、ひかりとの関係です。
脂が乗った人気建築家が、
金もない名もないちいさな障害者作業所の設計に関心を持ったのは?
後で聞いたことがあります。
「感じた」のだそうです。私の話しに。
多分、金もないのに「本物が欲しい」と語る私の世間知らずなところにでしょうか。
いや、多分、仲間たちのために、いい作業所を作りたいと言う思いを、純粋に受け止めてくださったのだと思います。
「建築家として、ぜひこの仕事をしてみたいと思った。」とはっきり言って下さったのです。
その為に、予定に入っていた大事なお客さんとの仕事を延期してくださいました。
その話を聞いて、目の前の景色が変わりました。
それまで必死になって、あたかも自分がやってるかのようにお願いしていた事が、そんな事じゃないという事に気がついたのです。
肩の力が抜けて、気が楽になりました。
「そうか、俺たちがやろうとしていることは、お願いして頼むようなことじゃないんだ。」
それは、「世の中にこんなステキな取り組みがあるぞ!どうですか?参加しませんか?きっと人生楽しくなりますよ。参加するかしないかは、あなたの自由ですよ。良かったら、『この指とまれ!』」だ。
表現は、多少不謹慎ですが、そんな感覚でした。
あの一流建築家が、自分からやりたいと言ってくださったんだ。
これはそういう事だ、と。
それから鬼瓦(友さんの顔つきのこと)は、少しずつ穏やかになって行ったのだと思います。
そのころから、面白いように募金が集まりだしたのです。
思うに、勝手に責任を感じて「俺が頑張るんだ!」と張り切り、浮いていたのだと思います。
うっとうしい話です。
私の悪いところです。
この作業所作り運動は、社会的必然であり、自分がやってるなんていうのは思い上がった考え方です。
たまたまその必然・必要に気がつき、その役割を担うに至っただけのことなのです。
佐藤さんに気付かされました。
まだまだ、若すぎて謙虚さが足りません。
あの時の経験が、私と陶友建設にとって大きな転機となりました。
・・・少しは成長できたと思います。
読んでいただきありがとうございました。
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ところが、佐藤さんとの出会いは、そんなに単純な道ではなかったのです。
実は、私は、嫌われてしまった時期がありまして・・・、次回は、その辺の裏話でも・・・。
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テーマ:いま想うこと - ジャンル:日記
2007.12.08 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
無認可時代(12)
1995年の年が明けました。
募金は1200件以上1100万円に到達していました。
あと300万円です。
暮れから明けにかけて、基礎工事、窯の据付が終わり、いよいよ木工事に入ります。
1月28日(土)
餅つきと、バーべキュウをセットにした、1000円会費の上棟祝いです。
朝から皆で餅つきをして、紅白の小餅を5円玉と共に袋につめて、お祝いの餅まき。
お母さんたちが準備した豚汁とバーべキュウで腹いっぱい。
3時から,伝照寺住職に仏式のおつとめをしていただき、工事関係者の流儀で工事の安全を祈願。
住職の計らいで神仏折衷の上棟式となりました。
木造瓦葺、漆喰の白壁、三和土(たたき)の土間。
梁が見える天井。風が吹き抜ける大きな開口部、たっぷりの光、・・・囲炉裏を囲む談話室。
「風が吹き抜ける。
人びとが交わりあう
認め合う人々の中で、仲間が輝く。
新しい、出会いと創造の空間。」
・・・関係者約80名。皆が、出来上がりを想像しました。
2月にはいると、職員の募集、新規利用者の体験実習などを経て、末にはほぼ新しいメンバーが決まりました。
時々仲間たちも現場に入り、木の切れ端や材料のくずを片付けたり、一緒に豚汁を作ってお昼をしたり、職人さんたちとも親しくなることが出来ました。
「一緒に作ろう。」
これは、悠工房ミナトさんからの呼びかけでもありました。
二月中旬には、募金は1500名を越える方たちから集まり、2次目標の1400万に到達しました。
2400万揃いました!
いい加減に見積もったわけではありませんが、設備関係を洗いなおし、外構工事も追加するとまだ数百万円足りません。
最後の勢いを付けることになりました。
資金つくりの初期、募金が伸び悩み、苦しい時がありました。
当時、私の顔は苦痛で鬼瓦になり、一生懸命になればなるほど、募金者は引いてしまいました。
「敵は内にあり」でした。
変わったきっかけは、佐藤さんとの出会いです。なぜ「鬼瓦」を卒業できたのか・・・、次回は、そこら辺について書きたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。
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思いも寄らない広がりを見せ、募金活動は順調に進み、
上棟式は、最後のゴールへ向けての「決起」の場となりました。
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テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.12.07 |
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無認可時代(11)
11月になると基本設計が出来上がりました。
早速、模型も作って頂きました。本格木造の工房のイメージが浮かびます。
寺の境内を通り抜けてくる風
大地と樹々にふれた
清清しい風
何にも邪魔されない
そのままの風がほしい
よどみなく吹き抜けていく風を
又、お隣にあげられるように
佐藤さんの思いが添えられていました。
木造の施設?
見たことも聞いたこともありませんが、法律には木造ではいけないとはありませんでした。
調べて安心したものです。
いよいよ3月末の竣工目指して、12月には着工です。
図面と模型が載せられないのは残念ですが・・・。
イメージが湧く資料を作り直して、募金活動に力が入ります。
見積もりが正式に出て、「総工費2400万円」。
募金目標を1000万から1400万へ引き上げました。
「『今はお金がありません。引渡しの時までには作ります。』と言う人と契約したのは、初めてだ。」とは、佐藤さん。
工事を請け負ってくださった「悠工房」さん。
しっかり資金を作り、心置きなく働いてもらわなければなりません。
12月着工の頃には、募金は700万に到達し、「後700万!」になりました。
仲間たちは、着工の初期にはスコップもって、整地の手伝い(殆ど邪魔だったんだろうけど、気持ちよく参加させてもらいました。)・・・その後は、お寺の本堂を借りて、生協のカタログの帳合作業など、色々試みながら・・・。
コンテナハウスの事務所では、募金のお願いの発送、集計、お礼状の発送など、あわただしく日が流れていきました。
毎日30万から50万の募金が、振込みや現金書留で届けられたのでした。
この間、ライオンズクラブや中小企業同友会の皆さんなどが、合同の野焼きと作品展を取り組んでくださったり、色々と話題つくりのため知恵と力を出してくれました。
「いったい何処から、これだけの募金が・・・!」嬉しいと同時に、気が引き締まったものです。
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このシリーズは、後進のために書いてます。関心のない方には面白くないでしょうが・・・、
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テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.12.06 |
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陶友祭のご案内です。
いよいよです。12月8日(土) 10:00~16:00 場所はこちらです
どうぞ お越しください。
無認可時代(10)
こうした出会いを通じて、佐藤さんが正式に設計をして下さる事になりました。来年の4月開所に向けて、逆算で「工程表」が作られました。急がなければなりません。
佐藤さんの仕事は、「家つくりは年間4軒」と聞きました。
それ以上はいい仕事が出来ないそうです。
そして沢山のお客さんを4,5年先まで待たせていたそうです。
そんな中に、陶友の新工房つくりを入れて下さったのです。
ここで佐藤さんの紹介です。→
こんな方です!現在は、久留米市田主丸町に引っ越されています。
それから何回も何回も、図面を持ってきて打ち合わせを繰り返しました。
その間も、募金集めは続きます。「・・・2000万円と言う金額は、私たちにとっては見たこともなく、不安がないわけではありませんが・・・。
しかし、障害があろうとなかろうと、たった一つ、一度だけのかけがえのない人生。
あらゆる可能性に挑戦し、新しい仕事と生活を切り開く次のステージをどうしても!と言う切なる思いで・・・。(略)
独立した一つの人格として生きる。
それは様々な社会的な支えを必要としつつも、自分と自分の人生を肯定的に捉えられる生き方をすることであり、自分を大切に思い好きになっていく・・・そう、一人の人間として誇りを持って生きていくことじゃないかと思います。
仲間たちが限りなく自己信頼を深めて、その人生を歩いていけるように。
そして、私たちもそのかかわりの中で共に学びあいながら、誇りを持って生きていけるように・・・。
新しい作業所作り、それは、新しい『人間創造空間』作りです。
皆様の絶大なご支援をよろしくお願します。」
当時の、
募金依頼のパンフからの引用です。
ちょと、自分の世界に入りすぎて、言葉が泳いでいるようでもありますが・・・、こんな気持ちでした。
この頃より、募金の額が徐々にに伸びだしてきます。「あ、よびかけが心に響きだしたんだ!」確かな手ごたえを感じ始めました。
読んでいただきありがとうございました。
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テーマ:障害者の自立 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.12.05 |
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無認可時代(9)
陶友の歩みについて、再開します。これから週3本ぐらいアップして、早く今に追いつこうかなと思います。興味ある方はカテゴリー「陶友の歩みと出会い」を参照ください。いよいよ、1000万円募金の峰への挑戦です。
サトウさんは、ジッと考えた後「次の打ち合わせの日程を入れよう。」と提案してきました。
???次の日程を決めて、われわれは失礼しました。
帰り道3人で、
「次ってどういう事や?」
「サトウさん、設計の相談に乗ってくれるってことじゃない?」
果たして、サトウさんは自ら陶友の現場に、打ち合わせのため尋ねてこられたのでした。
8月の終わりか9月の初めごろだったか・・・、プレハブの作業所に西日が指し、うだるような暑い日でした。
汗を拭きふき、佐藤さんは仲間たちにどんな作業所が欲しいかと聞きました。
彼の家つくりは、徹底して施主と話し合うところから始まります。
通常の家の場合は、100項目以上のチェックリストに基づきながら、家族一人ひとりの出身や生い立ち、暮し方、性格、趣味、癖に至るまで掴んでいくそうです。
私は、仲間たちに聞いても、彼らは主観的で一面的だし、「しょうもないんやないと?」と思っていましたが。
「トイレが欲しかです。」「着替えする所が欲しかです。」「ご飯食べるところが広かとがよかです。」・・・仲間たちは口々言います。
・・・「そげなことは、当たり前やろうもん」と、思いながら、「あーくそ暑か、早う形だけの聞き取りは終わらんかね。」・・・不謹慎にも私はそう思っていました。
そして、小脳の障害で平衡感覚がおぼつかないK君が切り出しました。
「ぼくは、段差があると歩きにくいです。靴を脱いだりするのも面倒です。外国のように靴を履いたままで、仕事も食事も出来る様にして下さい。」と。
一時間近い聞き取りが、やっと終わりました。
佐藤さんは、その部屋で唯一涼しげな、熱帯魚の水槽を見ていました。
後で佐藤さんに聞いた話。
あの空間に、熱帯魚を置いた演出のセンスが気に入ってくれたそうです。いや、小さな生き物を育てる気持ちが気に入ってくれたそうです。
もっと大事なことを聞きました。K君の話で、設計の基本構想が浮かんだと・・・。
全ての空間をオープンにして、三和土(タタキ)の土間でつなごうと。
私は、「仲間が主人公」と言い、「仲間たちの要求にこたえる作業所運営を」と言いながら、「こんな話は、どうでもよかろうもん。」と思っていました。
ところが、佐藤さんは、あの一流の建築家が、素人のしかも知的障害のある彼らから、辛抱強く、その願いを聞きだそうとしたのです。
彼の家つくり思想の原点を見た思いがしました。
誰のための「家つくりか」・・・。そこに自分の専門性を、どう提案して形にしていくのか。
「私も設計者の一人、皆さんも設計者です。一緒に設計をしましょう。」
後で、自分が恥ずかしくなりました。
読んでいただきありがとうございました。
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ほんとに恥ずかしい話です。バカな友さんに愛のムチを!
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テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.12.04 |
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無認可時代(8)
1000万円も募金を集めるのは、雲をつかむような話です。
事業のように、ここをこうすればいくらと計算できるものではありません。
お願いして回っても200万円あたりから、急激に伸びがなくなりました。
暗い日々です。訴えはだんだん重くなります。訴えが重いと、相手はもっと重くなります。
気軽に募金に応じにくくなるのです。
壁は自分の中にありました。
「俺が甲斐性ないから、こんなことをお願いしてるんじゃない。
この国の甲斐性が悪いからじゃないか!何で俺が頭下げなきゃいかんのか・・・」
私は、人間が出来ていないので、人に頭を下げるのが苦手なんです。
んーん。行き詰ってしまいました。
後で考えると、気持ち一つだったのですが、
そのときは必死なだけでドンドン追い詰められていきました。
そんな私を大きく変えてくれた出会いがあります。
後に陶友の設計を担当していただいた建築家サトウ氏との出会いです。
夏の盛り、いよいよ施設の設計にも着手する必要に迫られていました。
私は、一応の認可施設としての最低基準を満たすための、
ぎりぎりの設計のためのラフスケッチを作りました。
1000万円強のちょっと上等なプレハブ。作業室、事務室、トイレ、更衣室etc・・・。
とにかく、金は最小限で基準をぎりぎりでパスすればなんとかできる。
仕方がありません、それ以上は望めないのです。
法人のI氏、K氏とともに、先にひかり作業所を設計したサトウ氏を訪ねました。
サトウ氏とは初対面です。
こだわりの建築家で大変「恐い人」と聞いていました。
サトウ氏との相談の趣旨は、「この程度の建物はいくらぐらいで出来るものか?」
失礼ながら、業者との交渉の時にどのくらいの腹で行けばいいか教えてもらうと言うものでした。
楽しい話ではありません。
「1000万位の線からの交渉でしよう。」で落ち着いたのですが・・・。
私は、早く帰りたかったであろうI,K両氏のことは忘れて、サトウ氏に胸のうちを語りました。
「本当は本物の素材に囲まれた中で、土こねをさせてやりたい。
粘土という素材と合う自然の素材に囲まれたほうが、感性も豊かになりいいモノが作れると思う。
子どもと障害者には本物が必要だ。」と言うような事を、自分を諦めさせるように、話したように記憶しています。
サトウさんは、ジッと考えた後「次の打ち合わせの日程を入れよう。」と提案してきました。
???次の日程を決めて、われわれは失礼しました。
帰り道3人で、
「次ってどういう事や?」
「サトウさん、設計の相談に乗ってくれるってことじゃない?」
果たして、サトウさんは自ら陶友の現場に、打ち合わせのため尋ねてこられたのでした。
(つづきは次回、陶友での話し合いから)
読んでいただきありがとうございました。
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そんな簡単に1000万円も集まるわけはない。
起死回生の秘策があるのでしょうか?
内なる敵はどのように克服されるのでしょうか?
お楽しみにしていただき、
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テーマ:福祉のお仕事 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.11.11 |
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無認可時代(7)
資金作り事業のもう1つは、ワイワイコンサート。
仲間たちの願いや思いを歌にしてステージで発表する手作りコンサートです。
第7回目は1994年8月6日、連日の猛暑と水不足が続く中、西市民センターで開催されました。この時は、陶友の資金作りが中心的に位置付けられたため、勿論ステージも目立たなければならないのですが・・・。
仲間たちからの聞き取りを繰り返しながら、作詞を試みます。誰が?もちろん職員しかいないでしょう。
ひかりグループのコンサートの歌は、正攻法、ありがちなしみじみとしたメッセージソングが主流でした。
私はどうしてもいまいち乗れませんでした。
時期は迫るし・・・、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、
「今までのイメージを破る陶友らしいもの」を目指し、ロック調の曲をイメージした詩に仕上げました。
(作詞ってほどのものではないですが)そう、なんと私が作詞したのです。
そして、芸大職員のダンナさんに見てもらい、皆が覚えやすいようにシンプルな曲をつけてもらいました。
お恥ずかしいですが、折角ですから紹介しましょう。
「地獄の作業所」
お日さま カンカン ギラギラ
おいらは バテバテ グロッキー
墓場の隅の プレハブの
蒸し風呂みたいな 仕事場さ
おまけに所長は 鬼ゴジラ
それでも僕らは 土こねる
それでも僕らは 夢作る
誰が名づけた 地獄の作業所
トイレも お寺の 借り物さ
ちょっと 息抜き 用足しだ
ついでに 木陰で サボろうか
それとも このまま 帰ろうか
そおっと ゴジラの 目を逃れ
それでも 僕らは 土こねる
それでも 僕らは 夢作る
誰が名づけた 地獄の作業所
4番まであるんですが・・・行きますか?
(あのね、変な話ですが、この画面、使う面積が大きいと、無駄紙使うようなものじゃないですか?
詰めて書いたほうがいいですか?って、聴いたことがあるんです。貧乏性だから。
そんなことはないそうですね。・・・と言うわけだから、折角ですので次行きます。)
楽しい 昼飯 時間だよ
ちょっと 詰めてと 誰か言う
こんなに 狭くちゃ つめられない
大きな 身体が 恨めしい
ゴジラの 胃袋 恨めしい
地獄 地獄と 言うけれど
ここは 僕らの 夢工房
心に 自由の 翼付け
想い 想いに 土こねる
ついでに ゴジラも 土こねる
だから 僕らは 土こねる
そうさ 僕らは 夢つくる
ここは 僕らの 夢工房
やっぱ、さわりだけにしときゃ良かった。
全部見せるとボロが見えるな。
仲間、職員、ボランティア総勢40名がサングラスをかけて登場し、
ロックンロールに乗って鬼ゴジラ所長が踊りだす、と言うよりも、暴れだす!
・・・ひかりのステージでは、前代未聞。大いに受けました!
「障害者が大変な中で頑張っています、応援してください」と言うお涙ちょうだいは、嫌いなんです。
「粗末な悪条件の作業所、現状を笑い飛ばしながら、皆で新しい作業所を作るぞ!」というロックののりです。
800名収容のホールは立ち見席が出る盛況で、70万円の収益で建設資金の一部を作りました。
これで事業により資金作りのほうは目途が立ちました。
さて、本命の最も困難な1000万募金です。8月末時点でやっと、140万に到達しただけでした。
並行して、設計の検討が始まっていました。(次回へつづく)
読んでいただきありがとうございました。
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実はコンサートのとき、飲まずにはやれないなと想い、楽屋から出て、
焼酎をこっそり飲んでいたのだ。さあ、行くぞ!って乗るまで大変で。もう40歳になってたもん。同情したら、
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テーマ:障害者の自立 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.11.10 |
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無認可時代(6)
動き出すしかありません。
失うものは何も無いし、ためらう必要もありませんでした。
3年目(1994年4月)に入り、ミニ認可施設建設(ひかり作業所の分場ですが、解りにくいのでこう呼ぶことにしました)にとりかかりました。
課題は、先ず資金作り。次に施設の設計、建設です。
先立つものが無ければ始まらないし、資金作りを先行させながらのとりくみです。
資金目標は2000万円。見たことも無い金額を1年間で準備しなければなりません。
勿論、陶友単独の取り組みではなく、ひかりグループ全体の取り組みとして、経験豊かなひかりのKさんとOさんが、強力に援助してくれました。
資金作りの基本方針は、
1)1000万円の市民募金、
2)500万は事業活動で作る、
3)500万円は社協からの低利融資を受ける・・・。
簡単に振り分けても、さて想像もつきません。要するにやるしかないのです。
借金は、書類を作り申し込めばいいだけですが、後の二つは・・・。
事業活動の1つは、仲間たちの絵をプリントしたオリジナルTシャツの製作販売。
ひかりグループでプロジェクトチームが作られ、
全体から仲間の絵を募集し、その中から選んだものを商品化しました。
デザインに当たっては、芸大出身の職員が大いに活躍してくれました。
あらゆるつながりを生かし、協力を申し入れ、
当初100万円目標が、一夏で実に5881枚(1枚1000円)を売り、
320万円の資金を作ることが出来ました。
オリジナルTシャツは、この後数年にわたりひかりの資金作りの柱の1つになりました。
仲間たちの個性的な絵は、
人気もあり、家で飾りたいからと買いに来る人があったり、デザイナーが使いたいと尋ねてきたり・・・、
ただお願いして買ってもらうのではなく、
金額にふさわしい商品としての完成度も、売り上げを伸ばす大きな力になりました。
これは単なる商売ではありません。
障害を持つ人たちと作業所作りへの理解を広げる運動です。
Tシャツをつうじて、又新しい理解者を作っていったのです。
この成果の底辺には、
ひかりが九州で初めての作業所を作ってから20年間、いつも大事にしてきた、
「地域と共に」「市民の理解を」と言う取り組みの蓄積があります。
当事者が頑張るのは当然ですが、
障害者の問題は地域と社会の問題、
手をつなぎ皆が住みよい社会を作りましょうという運動として、取り組んできた一つの到達点でした。
もう1つの事業は、「ワイワイコンサート」の取り組みです。
仲間たちの思いや願いを歌にして、コンサートをして、収益を上げる取り組みです。
これも、ひかりが過去6回にわたり蓄積してきた取り組みでした。
猛暑の中の「ワイワイコンサート」は、・・・(次回に続きます)
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やるしかないとばい!仲間たちのために必要なものは創り出す。
福祉の仕事とは、創造する仕事です!
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テーマ:障害者の自立 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.11.05 |
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無認可時代(5)
1994年、3年目に突入。
仲間が増えました。長期在宅だった人、他の施設でなじまなかった人・・・。
方向転換が求められました。
「陶芸を専門的に追求し、年金とあわせたら自活が可能な収益を」という方向が妥当なのか?
個人的には、最初はそういう方向に、魅力を感じスタートしていました。
そして今思えば、技術的なものさえクリア出来れば、仲間は適性によって選別できるし、はるかに楽ではあったでしょう。
作業に没頭すればいいわけですから・・・。
焼き物と言う技術で障害者がある程度の収入を得ていると言えば社会的な注目や関心、支持も集めやすかったに違いないでしょう。
しかし、地域の障害者にとっては、とにかく行き場所が無かったのです。
社会資源(施設や作業所)が少なく在宅を余儀なくされ、地域で一人ぽっちになってしまう・・・。
当時の成人期障害者福祉は、「質より量」を求めていました。
とにかく行き場の無い人たちを受け止めよう、行き場の無い人たちの相談を断ることは出来ない。
方向を変えました。
結局、困難な道を選ぶこととなりました。
職員も増やしました。
当時の500万という福岡市の補助金では、3人の職員を抱えてはとてもやっていけませんでした。
施設設備も劣悪なままでした。トイレも無い、プレハブで寒暖に耐え難い・・・。
もっと希望する人たちが待っている・・・。
飛躍的発展が求められていました。
当時、小規模の作業所でも認可施設になる唯一の方法がありました。
運動の中で創られた「分場制度」です。
通常の施設よりも、報酬単価は低くなりますが、補助金の倍以上はあり、公費で安定的に支弁されます。
施設環境を良くし、もっと多くの希望者を受け入れ、経営を安定化するためにこの制度を利用することになりました。
そのためには、基準に見合った施設整備のために建て替えが必要になったのです。
問題は資金。
どんなに安く見積もっても2000万は必要です。(こんなもの後でどんどん膨らむのだが・・・。)
年度当初から急ピッチで計画が練られました。
話は変わりますが、先日の
10,30 全国フォーラムのアピールが出てます。
自立支援法抜本改正に向け→ここをくりっく!
読んでいただきありがとうございました。
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困難な道を選ぶことになりました。困難があると燃えるタイプではありますが、
2000万円を超える資金をどうやって作るか!?前途は多難です。
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テーマ:障害者の自立 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.11.02 |
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無認可時代(4)
2年目は仲間が更にふえ、4間・2.5間のプレハブを増築しました。
伝照寺住職が、「寺は死んだときに来る所じゃなくて、生きてる者が生かし合うところ」と言って、増築に理解を示して下さいました。
当時、例の大学の先生らしくないツトムチャンは、次のメッセージを下さいました。
毎週の楽しみ
僕が始めて陶友に来たのは、去年の二月でした。奥の部屋に通され熱帯魚の水槽を前にして座ると、ふと落ち着いた気分になったのを覚えています。
それ以来僕にとって、陶友との付き合いはとても大切なものになりました。
陶友に来ると、友さんと職員がいて、仲間たちがいて、熱帯魚がいる。僕はそこで忘れかけていた「心」に触れたような気がしたのです。
なんと言ったらいいか、それは仲間たちがお互いを認め合おうとする気持ちであり、焼き物や熱帯魚を育もうとする心でした。
福祉や施設と言う言葉では言い表せないような、もっと尊い心のつながりのようなものを感じたのです。
その意味においても、陶友の仲間たちは、とても恵まれた人たちだと思いますし、僕にとっても、陶友に出かけることが毎週の楽しみなのです。
陶友を勝手に消極的に見守る会 ツトムチャン
それからズーッと、ツトムチャンは、「こんちわ!元気?」と訪ねて来て応援してくれます。
あ!何かが伝わったんだ。今日も来た!
「友さん、昨日飲みに誘ったんだけど、早く帰ってたみたいですねえ」だと。
この頃、もう一人忘れてはならない人との出会いがあります。
開所間もない頃から1年半近く、火の車の作業所経理を週2回手伝ってくれた伊藤千代子(現糸島市会議員)さんです。
彼女は京都で学童保育の指導員をしていましたが、頚腕症にかかり、職業病認定の闘いに勝利した後、福岡に帰り、週2回通院しながらの闘病中でした。
私の大学時代の後輩でもあり、鹿児島の田舎出身という親しみもある人で、
精神衛生上も何かしたほうがいいだろうと、通院しながら作業所を手伝ってくれることになりました。
メガネの奥の細い目で仲間たちを優しく見守り、所長をおだてて尻を叩いたり、鋭く打ちのめしたり・・・。
優しく、芯が強く、豊かな人間的感性を持った伊藤さんに出会えたことは仲間たちの心にも、何かを残したでしょう。
そして仲間たちも大切な何かを伝えたことでしょう。
あの男所帯に、ささやかな野の花一輪でした。
体調も回復し本格的に仕事を探すために、お別れとなりました。
仲間たちにとっては初めてのお別れ。
皆で鍋をつついてささやかなお別れ会をしました。
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一つ一つの小さな出会いが、陶友を包み支え、ゆっくり育ててきました。
そしてそのつながりは、また新しいつながりを作っていきます。
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テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.11.01 |
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無認可時代(3)
1年目はあっという間に過ぎました。
私的には、4女が生まれバタバタ。1人全役は、それでも楽しいものでした。
今と違って、優しい役回りも演じながら、自分のすべてを出せて充実していました。給料は7万円でしたが・・・。
ワイワイコンサート、一泊旅行、時々のレクレーションに、陶芸教室も始めました。
作品作りも順調で、陶友祭では、70万円以上の売り上げがあり、暮れには6~8万円のボーナスを出すことが出来ました。
仲間も増え始め、2年目には職員を1人増やしました。
芸大出身の女性。陶芸の進歩のために必要な才能を採用しました。福祉職場には福祉職と言うのではなく、作業所には仕事のプロが必要です。福祉と教育のことなら私が解る、私に無い能力を求めるというのが、方針です。この方針は正しかったと思います。
2年目の夏、当時の様子をK君は,きょうされんの全国集会仲間の分科会で、ユーモアを交え、次のようにレポートしています。
「福岡の第3ひかり共同作業所工房陶友です。
陶芸の陶に友達の友。文字通り陶芸の仕事をしています。仲間は6人で職員が2人です。
場所は1等地で福岡ドームの近くにありますが、プレハブ作りなので夏は暑く地獄です。
職員は美人ですが、所長が人間の皮をかぶった鬼のような人なので、地獄と呼ぶのがピッタリです。
陶芸教室には近所の奥さんたちや沢山の外人さんが来ます。
第2土曜日は学校が休みのため、近所の子どもたちが土コネに来ます。
また、とても大学の先生には見えない九大の英語の助教授が来て、皆を楽しませています。
ここは人生にくたびれた人たちが、一緒に土いじりをして蘇生して帰っていくところです。
ここには、障害者の作業所は暗いというイメージはありません。
仲間も増えたし、少しづつ腕を上げて行きたいと思います。」
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所長が人間の皮をかぶった鬼のような人!?めげないぞ。
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テーマ:私たちにできること - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.10.31 |
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無認可時代(2)
開所当初の仲間の作文を紹介します。(文字使いは変換しています)
「僕は陶友のカギを持っているので、朝8時10分に陶友について、カギを開けます。
そしたらみんなが来て、着替えをして、作業室の中や外や畳の部屋や、お寺の掃除を手分けしてします。
9時になったら、お茶の当番の人がお茶を入れて、それを飲みながら1日の打ち合わせをします。
僕はみんなと仕事するのがうれしいです。」
これは、カゴサン(当時45歳)のものです。
普通に働く、したがって朝は8時30分から、終わりは5時まで。
世の中の人がするのと同じにしていました。
後に、職員が増えると、終礼等の時間が必要になり、終わりを早めるのだが。
鍵は、「どこの会社でも社員は持つでしょう。」と言う訳。
実は、一人職員では、必ず定刻に出勤とはいかなかった。
実は、子育て真っ最中で、3人の子どもを保育園に送っていかなければならなかった。
子どもがぐずったり、病院に連れて行く必要があったり・・・いろいろ。
そこで方便でそう言って、自分たちで始めさせたのだ。
条件の悪さを、マイナスにだけ捉えない、プラスに生かす。そういう発想が求められました。
効果は、作文の如し。
カゴサンは「工場長」と呼ばれ、意気揚々と張り切ったのでした。
もうひとつ。「食事について」
「僕は単身生活で、糖尿があるので酸性食品よりアルカリ性食品を多くとるように心がけています。ここに来る前は、昼飯はどうしようかなと思っていましたが、仲間のお母様が作ってくれたおかずだけ持ってきて、ご飯だけここで炊くという事で、安心しました。月に2回ぐらいみんなでカレーや豚汁を作ります。」
Kくんは、アパートに1人暮らし。昼飯を何とかしようと、お母さんたちにおかずを少し多めに持たせるように頼み、ご飯は当番で炊くことにしました。
おかずを真ん中にして、みんなで食べました。
彼は、お陰で元気にやっていましたが、残念ながら、何が原因かアパートで孤独死してしまいました。
5.6年前のこと。一人暮らしは、命に関わってしまいました。
「僕は食事当番をしました。お米を5合図って入れました。
ゴシゴシ、ゴシゴシときれいに洗いました。美味しい美味しいご飯が出来上がりました。
僕はみんなのお茶碗についであげました。
みんなが美味しい美味しいと1パクパク食べてくれました。
僕が食べていると、『お変わり』といったので、ついであげました。
みんなで食べると美味しいので、たくさんおかわりします。」
これはオサンチン(当時25歳)の作文です。
同じ窯の飯を食い、なにより、「自分たちでやる」喜びと気風にあふれていました。
「自分たちの仕事場だ」「自分たちの力でやっていくんだ」、
そして「出来ない事は人に助けてもらおう」・・・。
私は、これまでの依存的な彼らの生きる感覚・姿勢を変えようと、「自立」の精神を強く求めました。
何もかも依存されたら、一人職員ではやっていけなかったのです。マイナスは、プラスに転化されたと思います。
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皆若かった頃、草創の気概が伝わりますか?
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テーマ:私たちにできること - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.10.28 |
| Comments(3) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
開所までの歩みを振り振り返る。
無認可時代(1) 自分たちの力を最大限発揮する。
陶友の正式な開所は1992年6月1日。第3ひかり共同作業所『工房 陶友』
開所までの歩みを振り返ってみる。
・2月8日(くしくも私の誕生日だった)
ひかり運営委員、職員(私)、親の関係者で、作業所開所を確認。
・2月中旬
場所を、伝承寺を借りる事を確認
・2月下旬
400万円募金を開始
・4月9日
仲間たち4名と、業者とともに敷地の整地作業に入る。
木を伐ったり、草を取ったり自分たちの汗を流す。(やれる事は自分たちでやる!障害に甘ったれて人からやって貰って当たり前と思うな!が最初からの方針、気持ちだけでも・・・)
・4月21日
窯据付。有田の熱研さんに安くしていただいた(250万)。
コンクリートで基礎を固め手、大型クレーンで吊るして据える。本格的大窯にビビりみんなドキドキ。
・4月28日
プレハブ建設(まさに工事現場にあるあのプレハブ)。若い職人さん1人でやれるもんだ。みんなで材料運んだり手伝う。
3間8間の24坪。15坪が作業室、9坪が事務所兼、休憩室兼、食事室兼兼・・・。
費用の関係で、トイレはお寺さんのを借用。
・5月22日
ガス搬入、給排水、電気工事進む
こうして、5月末に完成し6月より正式にスタートする事となる。
いや、4月からの取り組みそのものがスタートだった。
仲間たちにとっては、出来上がったところに来るより、現場で作り上げるのを見ながら自分たちも汗を流した事によって、「俺たちの仕事場だ!」と言う気持ちが作られた。
その間、4月末にはわずか2ヶ月で400万円の募金目標を達成した。
ひかりは当時、新しい認可施設「ひかり作業所」を開所させたばかりだった。ひかりの運動の成果と募金活動のノウハウは、大きな力になったが、それに寄りかからず関係者は大奮闘した。
開所式は6月12日。
新聞各紙やテレビもその前後に、大きく取り上げ、幸先よいスタートを切った。
(陶友の歩みと出会い・・・つづく)
読んでいただきありがとうございました。
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歴史をまとめるための、自分のための文書で面白くもないでしょうが・・・
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テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.10.26 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
土地探し
作業所作りを始めるにあたっては、場所の確保が難題である。
最初は、早良の奥まったところに一軒家を買った。
便利なところは高いし、借地して気を遣うのはいやだから、自分で土地を買うことにした。
家を立てる事等考えもしなかった人生を歩んで来てたから、土地探しなど初めて。
たまたま妻の同僚が新聞で見たという広告を紹介してもらい、見に行った。
土曜の午後見て、夕方には契約した。
いろいろ探すのも面倒で、迷えば迷うほど迷うのが私の性格。
「おっ父がよければ決めるよ」で決まり。(俺は金なし、財布はおっ母のもの)
交通の便は悪いが、90坪に中古の平屋。改装すれば、立派な工房になる。
「要らなくなったら売ればいいや」バブルの頃であった。
1991年の秋のこと。
そうこうしているうちに、
宅老所のS女史から「お寺さんが土地貸してくれるってよ。」と言う話が来た。
S女史は、ここ伝照寺の茶室を借りて、全国の先駆けとなる「宅老所」の産声を上げる準備をしていた所だった。
そこで私が作業所の準備をしていることを話してくれたらしい。
S女史は、若い頃からの知り合いで、その連れ合いはひかりの所長である。
彼も若い頃から、障害者問題の学習会を通じて知り合った。妻は彼の後輩でもある。
お互いに、それぞれの結婚を祝う会の実行委員長をやった中である。
そして伝照寺の住職。
彼も、私が大学卒業後に働きだしたとき、この近所のアパートに住み、地域の平和運動で知り合った方だった。
「友さんなら知ってる。彼なら土地を貸してもよかばい。」と言って下さったそうで。
世の中狭いものだ。
浄土真宗の中にも、福祉の勉強会があり、
地域が変わって檀家さんがばらばらになる中で、檀家さんだけのお寺としてではなく、
地域の中でいかに共存するかを探っていたときらしい。
それから、この寺は、お年寄りと障害者を受け入れて、支えてくださっている。
こうして、都心の住宅街の1等地で、作業所を始めることができた。
地下鉄から5分、ヤフードームの近く、しかも住宅街で静かで緑も沢山と来てる。
ただでいいと言われたが、そう言う訳にも行かないだろうと、形ばかりの借地料で。
有難いことである。
あの時そのときの出会いがつながり、その力に支えられて最初の大きな一歩が踏み出せた。
自分では描きもしなかった、予想外に大きな一歩が。
私事だが、あの土地は、家族も増えることだし、何とか支払いは出来ることでしょう(おっかあ頼みで)、ということで、今の我が家を建てる事となった。
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Sさん、伝照寺さんありがとう、出会いに感謝!の気持ちをこめて
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テーマ:福祉のお仕事 - ジャンル:福祉・ボランティア
2007.10.22 |
| Comments(1) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
3行日記・・・07.10.10
陶友通信NO.109発送。みほちゃんの還暦祝いの記事。
HKさん 金のことでゴチャゴチャ。先方の担任の先生と調整のための打ち合わせ。職員KURI,夜の家庭訪問に。1歩踏み込む。 急に涼しくなった。風邪などひきませんように。
資金作りのため募金について書きます。ちょっと長いですが、ぜひ読んで欲しいです。
「呼びかけ」はB4版にいっぱいに心をこめた楷書体だった。初心に帰るためにも、ここに再掲する。もちろん手書きしか出来なかった。
先輩や友人、知人の皆さんへ。めぐり来る春の息吹が感じられるこのごろです。皆さん、元気でご活躍のこととおもいます。
さて、私は、このたび、別紙の通り障害者の新しい仕事場を作る準備にとりかかりました。
つきましては、皆さんの応援をいただきたく、こうしてお願いすることにしました。よろしくお願いします。
1)、私は大学卒業後13年間、民間の障害者施設で働いてきました。
知恵遅れの(まま)青年・成人期障害者が、家から通いながら作業に取り組み、生活と仕事の訓練をする施設と考えていいです。
陶芸班の担当指導員をしながら、誠実に真面目に仕事をしてきたと、ひそかに自負しているところです。
2)、仲間たちと仕事をする中で、
「
労働」を通じてコトバや自己表現が豊かになったり、様々な社会性を身につけていく姿に学びながら、
「みんなといっしょに働き、社会に参加すること」=「労働」こそが、青年・成人期障害者の成長と発達の源泉であると言う確信を、改めて強くしています。
1人の青年がいました。軽度の知的障害と自閉症の人です。
彼は陶芸が好きで、これをすることにより、心が非常に安定してきました。
しかし、施設での訓練期間を終え卒園しましたが、自分にに合う場がなく在宅となり、また心が不安定になり、安定剤の服用で顔つきまで変わっていったのです。
そのことをもきっかけにしながら私は、障害者の社会参加についてもっと深く考えるようになっていきました。
3)、私自身は、
より自分らしく生きて働くことにこだわり、職業も選び様々な社会的な活動にも参加してきました。
しかし彼らにはまだごく限られた道しか準備されておらず、それに適応できなければ、自立も参加の条件も極めて狭められていると言うのが今日の実態です。
4)生産が高まれば、多様な価値が生み出され、人間の価値観も
個性も多様化してきます。
より豊かでより自由な個々人の発達と成長のためには、障害者にこそその障害に合った多様な選択肢が準備されなくてはなりません。
今日の障害者福祉は、与える側からの一定の制度は作られていますが、利用者、まさに権利主体の要求に沿った取り組みは、まだまだ遅れています。(
自由権的生存権がおくれているというか・・・。)
そういう中で新しいタイプの仕事場が必要だと考えたわけです。
5)、本来、人類の発生史からしても
、「労働」こそがまさに「人間発達の源泉」でした。
労働こそが社会的富を生み出すだけでなく、その主体=人間そのものの発達を保障してきたと言えます。
しかし、今日では「
労働の産物」から疎外されるだけ出なく、
命までも疎外される、労働が人を殺す(過労死)時代になって来ています。
そうした時代にあり、障害を持つ仲間たちの、働き社会参加を目指すなかでのたくましい成長は、人間にとって働くことの意味を改めて問うことになるでしょう。
人間らしく生きて働く(このすこぶる今日的なテーマ!)。
より自由に、より個性的に個々人が全面発達への取り組みを展開するという、ささやかな実践の試みが私たちの目指すところとなるでしょう。
6)、「
障害」は、人類の発生と進化の過程では「類的必然」と言えます。誰一人として障害者とならないという保証はないのであり、決して個々の問題ではなく社会問題そのものです。
そういう点で私は、こういう仕事は
「公的責任(特に財政面と住民(主体)参加』が基本」と考えます。しかし、それを待つだけでは道は拓けません。
まずは要求を自覚したものが手を取り合って運動をする・・・と、関係者の皆さんとこうした取り組みを始めたわけです。
7)、幸い私も努力の甲斐あって、公募展への入選入賞を重ね、ある程度の焼き物を商品として焼けるところまで来ました。
仲間が「自分の好きなこの仕事」とやりがいを感じ、一定の収入(年金とあわせれば何とか独り立ちできる、5万ぐらい)を得られるような陶芸窯を、五人ほどの障害を持つ仲間たちと開設しようとしているところです。
8)、今日、勤労者の生活は大変だし、こうして募金のお願いをするのは心苦しいですが、私も妻と3人の娘たち(4人目イン ザ ポンポン)に支えられ、40歳を前にざ全力を尽くす決意をしているところです。
当面月給も10万無いですが、「
男が生きてやる仕事として不足はない!」(女はダメということじゃないよ)と考えています。
先ずはその心意気を高く買っていただき、募金にご協力よろしくお願いします。
最後に、皆さんのご健勝とご多幸を祈りつつ・・・。
1992年3月
以上でした。今読んでも、構えだけはなかなかの格調です。(自画自賛)
当時の熱い思いがよみがえります。
テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.10.10 |
| Comments(4) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
陶友の歴史について書きます。
今日の部分はあまり面白くはないが、流れとしては抑えておく必要があるので・・・。
どういう形で作業所を立ち上げるか。独自にやるのか・・・。
当時の状況は、作業所も市内には数えるぐらいしかなく小さなものだった。
当時、九州で最初に開設されたひかり共同作業所が13年目を迎え、社会福祉法人化目指して新しい発展段階にあった。
私自身もささやかながら、バザーや運営に協力した経緯もあり、その理念には共感を覚えていた。大学時代からの友人(現かしはらホーム所長 古賀氏)もいた。
そこで、ひかりと合流して作業所を立ち上げるべく申し入れをした。
先方は、法人格を取得し、新しい施設作りの真っ最中だった。
「ひかりが落ち着いてから1年後に」との考えだった。
私は、名前やノウハウは、貸してもらい援助してもらうが、足手まといにはならない、運動的にも落ち着いてからと言うよりも、勢いがあるときに一気に進め、ひかりを大きくしたほうがよいと主張し、それならと、折れてもらった。
こうして、陶友誕生への方向が決まった。1991年の暮れ頃だった。
明けて1992年、本格的な準備が始まった。
土地探しは大変なことだが、これは既には決まっていた。(この件については別項で書くことにする)
問題は資金作りだ。
どう見積もっても窯関連で300万、プレハブの建物で100万、最低でも計400万が必要だった。
募金の訴えを作った。
公式の訴え文書は、字数も制限されいまひとつぴんと来なかった。これで人の心を動かすことが出来るだろうか?不特定多数の人たちには、一般的な呼びかけも仕方なかった。
私は、知り合いに向けて、個人的な呼びかけ、お願い文書を作った。
自分のすべてを語らなければ、誰の心を捉えることができようか?そんな思いだった。
大学時代以来、つながってきた殆どの人たちに呼びかけた。それは300人を超えた。
(つづく)
テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.10.10 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
出会い・・・(3)
TPC(スリーピースコミュニケイションズ)の皆さん。
今日は1番あたらしい出会いについて。
20代後半の青年たちである。
かねてから陶友もホームページを作らなきゃと思っていた。
しかし、私はこの現代電子兵器は全くダメ。任せられそうな職員もいない。
月一回弱の陶友通信だけでは伝えきれない陶友の営みを何とかもっと広く伝えたい・・・。
そんなある日、1本の電話が入る。
「友さん。電話です。」私は電話は余り好きではない。何か頼まれたら、気が弱いので断れないからだ。電話上手の事務員さんに、「誰?俺用事無いけどな」とよく言う。「ホームページを作る会社から、無料で作ってくれるそうだけだど・・・」・・・
「ただほど高いものは無いよな・・・」しかも、こちとらその世界は全く分からない。
実は、ここからの電話は3回目だった。ま、聞くだけ聞いてみるか。電話に出た。案の定、断れずに会って話だけでも聞こうということになった。
果たして2人の青年が来た。新しく自分たちで会社を作ったそうだ。
会社の実績作りと、その宣伝のためだから無料でいいという。そういう意味では納得はいく。
陶友のことを熱心に聴いてくれた。嬉しかった。
後で考えれば、商売だから、当たり前だろうが。
お客さんととことん話し合い、一緒にHPを作りたいという。
社長のクボチャンは、お客さんに喜んでもらえばお金は後からついてくると言う。そういう仕事がしたいという。
お金を儲けるのが会社というものだろう、と思いつつも、ん、いいかも、と思った。
常套のせりふかもしれなかったけど、「HP作りで陶友を応援したい」という言葉に、「こいつら、いい奴だ」と思い、撃ち落されてしまった。
お願いすることにした。
みんな、同じ会社で働きながら、自分たちの想いを大事に仕事をしたいと、やめて小さな会社を始めたらしい。
なんか、自分と重なる。生きることに真っ直ぐだと思った。
こんな奴、好きだなと。
市場が未開拓な福岡という新天地に夢をかけてきているらしい。
なんか、この青年たちの心意気に惚れて、HPのことは実はどうでも良かったのかもしれない。
この青年たちを応援したい気になった。
それから打ち合わせ。
陶友への思い、取り組みに熱心に耳を傾けてくれた。
お互いをよく知り合うため職場合コンもした。一緒に酒も飲めば、もっと親しくなる。
そして、出来た。初めてのHP..。
新しいわが子ができたみたいに、苦手な電子兵器をいじる。
そして、ここはこうならないかと注文をつける。注文ついでに飲む。
そんな付き合いが続いている。
なんか、純粋でいい奴らなんだ。かわいい弟や妹が出来た気分だ。
個人的には、コンテンツに「大脇道場」も作ってもらい、絶対にこんなことはしないだろうと思っていたブログの世界にはまってしまった。
これはかなり大きいよ。私の人生にとっては。
「生き方も仕事もリアリティが問われる」クボチャンの口癖である。
話していて、よくとは言わないまでもなんとなく解る。
若いのに哲学がある。
ビシビシ鍛えてやろうかなと思う。(失礼!)
一緒に、陶友の新しい発信をして行きたい。
皆さん。ホームページ作りのご用命はぜひとも、TPCへ!このページの左の1番したのバナーをクリック!絶対にいいものが出来るよ。このHPは、出来上がったものではなく、育てるもの。育て方もバックアップしてくれます。
テーマ:生き方 - ジャンル:ライフ
2007.10.10 |
| Comments(2) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
陶友の歴史・・・・2
なぜ「陶芸」だったのか。
答えは簡単。陶芸を必要とする仲間がいたということ。
Y君は、自閉症と軽度の知的障害だった。5年間付き合った。
こだわりの強さは、相当なもので、自分が気に入ったものはとことんこだわる。
一つの音楽が気になると、運動会の練習の場所に行き「レコードください」と粘ったり、歯医者の機械が気になると、病院に行ってずーっと見て、困らせる。
極めつけは、葬式が気になり、よその葬式に参列し涙を流し・・・香典泥棒に間違われて警察に通報される・・・。
そのこだわりによる問題行動は上げればキリがない。
気に入らないものは全く見向きもしなかった。
作業にならなかった。毎日毎日追いかけっこだった。
何がきっかけか全く分からなかったが、とにかくある日突然,粘土に興味を持った。
元来器用だったので、めきめき上達した。当時の施設の稼ぎ頭だった。
生き生きしていた。
ところが、当時は施設も少なく、いつまでもそこにいることは出来なかった。
出来るだけ多くの人に利用してもらうためということで、その施設の内規で、1人の利用は5年に限られていた。
かくて5年が経過し、Y君は施設を退所する事となった。
例に漏れず、母親は必死になって次の行き場所を探した。しかし、どこも彼に合う所がなく在宅となった。
在宅で楽しみややりがいを失った彼は、精神的に不安定になった。
安定剤を服用する。薬で顔もむくみ別人のようになっていた。
数ヵ月後、お母さんからの相談で話を聞いた。
近くにデイサービスの施設が出来、そこに週1回の陶芸教室があり、通うようになったとの事。そんなある日、バス停に迎えに言ったお母さんのその鼻の前に両手をかざした彼は「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と、ピョンピョン飛び跳ねて喜んだという。
「やっぱり粘土が1番好きなんですねぇ。」とお母さん。
Y君のその姿を思い浮かべ、お母さんの嬉しそうな顔を見て、想いがグーっと前に進んだ。
陶芸をやる作業所が必要だ。作ろうと。
誰だって、俺はこれが一番好きだというものがある。
普通、多くの人は、1番じゃなくとも2番目のことでも何とか我慢し妥協し、適応していく。
そういう力がある。
しかし彼の自閉症はそういう選択肢を閉ざしてしまっていた。
そのことで逆に、私に「1番好きなことして働きたいんだ、生きたいんだ」という強いメッセージを送った。
「こだわりが強く、適応力がない」彼が、実は生きるうえで大切なものを教えてくれたのだ。
「妥協せず自分の好きなことを大事に、自分らしく生きて行きたい。」と。
施設の都合や社会の制約や、自分の意志以外の力で自分の人生が決められていく。
私はそんな生き方はとても受け入れられない。
うまく言葉で表現できない彼が、再びであった粘土こねの喜びを「お母さん、僕の手を匂って!粘土の匂いがするやろ!」と飛び跳ねて表現した。
この喜びは、みんなの喜びにつながるもの。
職場をやめ、ゼロから作業所つくりに取り掛かろうと決意するに十分な出来事だった。
苦労するに値する価値がある。
こうして、ただ一般的に、行き場のない障害を持つ仲間たちの作業所を作るというのではなく、自分達が好きでやりたい陶芸の作業所を・・・。こうして、まだ見えぬ作業所の方向が決まったのだった。
私自身も、我流ながら陶芸の修行をして、そこそこのものになっていた。
当時の数年間は、一通りの陶芸展で、入選入賞を重ね、ちょうど市美術展で市長賞をとった頃で、そういう面でも準備は整いつつあった。
どこまでやれるか、不安はなかった。
行くべき道をつかんだことが嬉しかった。
テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.10.09 |
| Comments(1) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
3行日記
久々の雨。庭には咲き始めのフジバカマ。背振山は雲の中。
相撲協会の体質。親方処分だけで済ますとは根が深いなと思う。北の湖しっかりせんか!
ホークス、シーズン中の悪いパターンで負け。今年もか?
こんなこと、言ってしまっていいのだろうか?
人に金を貰ったことはない。
大学を卒業するとき就職支度金として10万円、親に貰ったことがある。
貧乏で金に縁のない私が桁違いの金を、現金で貰ってしまった。
大卒後13年間、知的障害者の施設で働いた。
このことは、先日のエントリー「『陶友』という名前」で書いている。
13年目に3代目の施設長が赴任した。私は何も期待してはいなかった。
自分の信念に基づいて働くのみ。経営者による評価はどうでもいい。
評価するのは自分自身である。自分自身の仕事は、私が受け持つ障害者自身に映し出されている。その親の声に現れている。
淡々として13年目を迎えていた。
ある日、この園長が、私の窯焚きの残業に付き合ってくれた。
窯焚きは深夜に及ぶ。上司が仕事に付き合ってくれるというのは初めてだった。
「あ、この人は違うな」と思った。
「窯焚きはつきっきりじゃないといかんとな?」
「いえ、定期的に見れば・・・」
「じゃ、隣に飲みに行くバイ」
「いや、仕事中ですから」
「私が、良いと言ってるんだから・・・」
隣の小料理屋でご馳走になることにした。
少し、リラックスしたところで、
どうして付き合ってくださるのか、初めてのことだ、と尋ねた。
中学校の校長を退職後に赴任した彼は、
「遅くまで部活指導して、暗い職員室に1人で入っていくとき、寂しかったものだ」と、若いときの話をして下さった。
何よりも私の仕事を公正に評価してくれているというのが、嬉しかった。
その年は、新しい施設も出来、職員の移動で現場は新人だけだった。
「この人は、現場から支えたい」そんな気になっていた。
一方、そろそろ自分で新しい作業所を作り、小さくとも理想とする福祉の仕事を形にしたいという思いも固まっていた。
ある日、軽く飲みながら、その胸の内を語った。
次の日、廊下をすれ違うとき、
彼は(その頃、職場の外では、彼の事を「かとちゃん」とよんでいた。)私のポケットに、封筒を差し込んできた。
作業室で見ると、ピン札が1束入っていた。
見たことも触ったこともない札束だった。
私は、「まだこれは貰えない、どういう作業所を作るか趣意書も作っていない」、と返そうとした。
「趣意書もちゃんと作って、それで応援していただけるのならその時にお願いします。」と。
すると、かとちゃん。
「そんなものはいい、君にあげるのだ。好きなように使えばいい。」
自分のことをはじめて認めてくれた人に対して、
1年でやめて自分がやりたいことをするのに躊躇もあったたことに対しても、
「人生には時期というものがある、私も1年目だから支えてくれると助かるが、君が必要だと思う時期が1番だ」
こうして、その秋から、仕事の合間を縫って、新しい作業所作りの準備に入ることになった。
最初の一歩の大きな励みになった。
その後もずっと、かとちゃんは、陶友と私を見守ってくださっている。
この人の応援に、いつも誠実に応えようと思っている。
テーマ:生き方 - ジャンル:ライフ
2007.10.08 |
| Comments(5) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
人生の道すがら、人にはそれぞれの出会いがあります。
「出会い」についてもこのブログで書いてみたいと思います。
特に私は、これといった能力もなく生きてきましたが、自慢できることが1つだけあるとすれば、それは「出会い」の豊かさじゃないかと思います。
出会いの重みも受けた影響もそれぞれです。
新しいカテゴリー「出会いについて」で、これまでの出会い、これからの出会いを記していきます。
先ずは、このカテゴリーのプロローグ。
人生の豊かさは、人間関係の豊かさじゃないかという話。
もう10年近くも前だと思う。
新築なった陶友に、年配の方が尋ねて来られました。
どういういきさつでここに来たのか・・・。
はっきり覚えているのは、自己紹介のときに
「私の趣味は”ひともうけ”です。」と言った事です。
「変わったおっさんやな。こんな貧乏作業所に、金儲け趣味の人が・・・、いやだなあ、適当に付き合うか・・・」
と思ったものです。
その方は、地域つくりや都市計画のプランナーで当時、九大学研都市構想検討メンバーもされていました。
彼の持論。1999年11月14日付け西日本新聞「日曜インタビュー」より転載します。
「世の中は、核家族から個族社会、一人社会になってきた。刹那的な事件も孤立化の中で起こっている。これからはもっと、個人個人がばらばらになっていくのではないか。」
「大正9(1920)年から平成7(1995)年までに日本の人口は2,2倍になったが、単身所帯の方は17,5倍にもなっている。だから家具も”個具”になった。携帯電話も個具だ。物だけじゃなく食べるものも個食化しコンビニや100円ショップは個族化社会のニーズにこたえて大成功している。これからは、人の話を聞いてあげる業、個人会話を仲立ち、サポートしてあげましょうという業がはやるのではないでしょうか。」
個族化社会は、血縁や共同体に頼っていけないのだから「主体的なネットワークを持たないとダメだと思う。遠くの親戚よりも近くの他人。孤立しないためには沢山の人たちとネットワークを組まなければならない。そのためには、常日頃から付き合いを大切にし、(金儲けではなく)“人もうけ”をしておかねば」
新聞記事を引用するまでもなく、彼はそのようなことを話し、作業所でのネットワーク作りに関心をもっての来訪だったことが分かった。
彼の地域社会と人々の関係に関する、分析と、「個族社会に”人もうけ”を」という考えには甚く共感した。
私は、作業所運動はある意味において、地域社会における「人間関係の再構築」だと考えている。いくら施設や制度が整っても、障害者に対する理解や、共に生きる共感が地域社会に涵養されなければ、それは、障害者にとって生きやすい社会とは言えないだろう。
それ以降、私は”人もうけ”という言葉をパクり、様々な機会に使わせてもらっている。
仲間たちの周りに、どれだけの価値ある”人もうけ”をすることが出来るか。
これが、私たちの仕事であり、作業所の任務とも言える。
作業所作り運動を、新たな視点でとらえる「言葉」をいただいた。
そんな出会いとなった。
しばらくは、芋ほりや蕎麦打ちなど、仲間たちも呼んでいただいて交流が続いた。
この経験が、応援団「ゆうゆう」の結成へも生かされていくことになった。
テーマ:生き方 - ジャンル:ライフ
2007.10.08 |
| Comments(5) | Trackback(57) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
「『陶友』の生い立ちとあゆみ」というカテゴリーで、陶友の歴史を、そこに関わった思いもこめて書き記しておきたいと思う。順不同になると思うが、陶友を応援してくださる方々にも知っていて欲しいと思う。
作業所つくりに本格的に動き出したのは、1991年の秋ごろから。
大学卒後に、知的障害者の施設に勤め13年目にはいっていた。
その間自分なりの努力はしたが、私の理想とする施設への見通しは無くなっていた。
私の実践は評価されつつも、理念と思想が煙たかったらしく、万年平で次々に後から来る人が主任になったり・・・。ポストはどうでもいいのだが、陶芸の腕とか処遇の技術とかだけが施設に都合よく利用されているだけだった。要するに、干されていた。
雇ってもらったお礼は十分にした、自分の理想を形にしたいと思ったのだ。
そこら辺はいいとして・・・。
新しく作る作業所の名前をどうするか。
陶芸をやるからには「陶」の字を入れたい。
漢和辞典で調べる。
その意味は、「やきもの、教え導く、伸びる、楽しむ、喜ぶ」とある。
ピッタシだ!薫陶、陶酔、陶然・・・ね!
さてもう1字は?みんなで、仲間になって・・・と言うことで「友」にして、「陶友」にしようとおもった。
しかし、気になった。自分の名前に「友」がついてる。
自分の名前をつけて私物化しているという誤解を招きたくない。
当時の園長に相談した。(この方のことはいつか書く。13年目にして、初めて私を正当に評価してくれた3代目の施設長である。)
「あなたの名前に『友』がついてると知ってる人は、そういないだろう。」
そう言えばそうだ。考えすぎだった。
電話帳見ても、ダブル(今風に言えば、カブル)名前はなかった。
かくて、「陶友」で行こう!と決めた。
新しい取り組みにエンジンがかかった。
テーマ:障害者作業所 - ジャンル:日記
2007.10.06 |
| Comments(0) | Trackback(0) | ・陶友の歩みと出会いⅠ
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