NO.279 「今時の学生は・・・」と言うおじさん。
何の話からどう廻って来たのか、とおるさんが次のコメントを書いてくれた。 うちの学生達は、僕の学生時代よりよっぽど勉強はするよ。授業にもまじめに出るしね。
彼は大学教師です。
でも、云われたことをちゃんとやるけど、自分であれこでやってみるのは少ないね。
よくみると、みんな個性があるんよ(当たり前やが)。
でも、個性を押し出したらいかん、という雰囲気を感じる。KYと云われたくない・・みたいな。
それと、間違ったり失敗したらいかんという思いが強い。
そら、医療の現場に出たらおいそれと失敗できんけど、学生のうちは命にかかわらん失敗を経験せんとね。
目の届く卒論生には、失敗の価値を教えるのが最初の仕事になってます。
今時の学生について話すのは、おじさんの証拠かな?ははは、とっくにおじさんだけどぉ。
今、うちの作業所に実習学生が2人来ている。
今日の終礼で、一人が報告をした。
カゴさんが「給料から、利用料が取られて1500円ぐらいしか手に入らん。議員さんやら、居眠りしよるとに、利用料払わんで、国会から給料をもらっとる」と言って、これに対しなんと言って良いか解らず、困ったと。
なるほど。・・・相手が知的障害者ではなく、ただの友人だったらどうだろう。
相手は知的障害者でよく解らないし、こちらは実習生だし年下だからという遠慮を差し引いても、このようなシーンは、実習初めに良く見かけます。
「なんで?何がわからんと?」と聞く。
???である。
思うに、結果に対する評価が気になるのでは?
小さい時から、予め答えが決まってる問いに対し、正解を探すことが勉強だと叩き込まれてきている。
だから、自分が探す答えが正解かどうかが、先ず気になってしまう。
どう評価されるかが気になってしまう。
私は、そうじゃないか?と問う。
首をかしげ、反応は薄い。
何も言わなければ、何も始まらないし、解らない。それで終わりだ。
立派な言葉かけは要らない。そもそも、人と人の関係に決まったものはない。
自分が思ったそのままを返す、それに又相手から返ってくる。
そうこうする中で、お互いのことが少しづつ分かり合える、と言うことを話した。
その中に君の「正解」がある、まず自分なりの正解を自分で探すのだ。
それらを又持ち寄り、話し合い、より正解に近づくために、こうして集団的に話し合っているのだ。、と。
これまでの学校での勉強では、結果が気になるクセがついているのはしょうがない。
しかし学ぶということは、自分で動き、自分の頭で考えることからしか始まらない。
「人間がそんなに簡単にわかるもんか。俺なんか、30年も知的障害者と関わって、いまだにわからんことばかりや。1日か2日実習して解ってたまるか。解らんからこそ、ぶつかり働きかけて、自分の答えを捜すんだ。そんな事で、多少の失敗しても、相手は死にゃせん」
・・・乱暴だが、私はそう言う。
「主体的に働きかける。自分をさらけ出して相手にぶつかる。その中で自分が見え、相手が見えてくる。ここでの実習は、そいいうこと。失敗したら、そこに学びの課題があるということだ。人に関わる仕事は、関わる中からしか始まらないし、答えは見えてこない」と。
・・・偉そうなことを言う。
やっぱり、おじさんの証拠だな。
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2008.02.06 | | Comments(5) | Trackback(0) | ・道場日記・オッス!!
