NO.2627 いじめとその議論・報道について
大津の中学生いじめ自殺事件は、警察の捜査が入り、学校や教育委員会への批判が激しくなっている。
報道を見る限り、その隠蔽体質と無責任ぶりは明らかであり批判されて当然であろう。
しかし、そういう批判や議論だけでいじめを解決することができるのだろうか。
むずかしい問題なので、ここではいくつか参考になる論考を照会するにとどめることにする。
昨日、テレビで、内藤さんが「あきらめないで頑張れ、誰かに相談するように・・・」と語っていた。
彼は、苦しいいじめを克服し世界チャンピオンになった自身の体験を通じて、正直な気持ちを述べたに過ぎないだろう。
しかし、それだけなら、「頑張れ!」というだけで「自分で解決しなさい」というだけのことである。
朝日新聞が同様のことを記事にしている。
《いじめられている君へ》内藤大助さん
■相談はカッコ悪くない
いいか、絶対にあきらめるな。いじめが一生続く、自分だけが不幸なんだって思ってるだろ? 俺自身もそうだったから。でも、いじめはきっとなくなるものなんだ。
俺は中学2年の時からいじめられた。はっきりした原因は俺にもわからないけど、同級生から「ボンビー(貧乏)」ってあだ名をつけられて、バカにされた。
北海道で育ったんだけど、母子家庭でさ。自宅で民宿をやっていて、母が朝から晩まで働いていた。
家は古くてボロくて、制服も四つ上の兄のお下がり。つぎはぎだらけだったから、やっぱりバカにされたよ。せっかく祖母が縫って直してくれたのに、俺はバカにされるのが嫌で、わざわざハサミでつぎはぎを切ったこともあったよ。
中3になってもしんどくて、胃潰瘍(かいよう)になった。学校で胃薬を飲んでいたら、先生から「何を飲んでいるんだ」って叱られた。理由も聞いてもらえず、つらかったな。あのとき一瞬、先生が助けてくれるかもって思ったんだけど……。
高校を出ても、「いじめられて、ボンビーで、俺は生まれつき不幸だ」と、ずっと思っていた。上京して就職しても、帰省したらいじめっ子に会うんじゃないかって怖かった。
強くなりたかった。不良のような、見せかけの強さだけでもいいからほしかった。暴走族に誘われたら、入っていたよ、たぶん。
そんなとき、たまたま下宿先の近くにボクシングジムがあったんだ。通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても、「ジムに行ってるんだ」と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思ったね。
入ってみたらさ……楽しかったなあ。周りも一生懸命で、俺もやればやるほど自信がついて、どんどんのめり込んだ。自分を守るために始めたのに、いつの間にかいじめのことなんてどうでもよくなっていた。不思議なもんだ。
ボクシングの練習がつらいときは「いじめに比べたら大したことない」って考え、マイナスの体験をプラスに変えてきた。でもね、「いじめられてよかった」なんて思ったことは、ただの一度もないぜ。いまだにつらい思い出なんだ。
「いじめられたらやり返せ」っていう大人もいる。でも、やり返したら、その10倍、20倍で仕返しされるんだよな。わかるよ。
俺は一人で悩んじゃった。その反省からも言うけど、少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい。先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。あきらめちゃいけないんだ。(ボクシング元世界王者)
ある司法関係者が、「モンスターこそは学校、教育委員会である」と指摘している。
大津の中学生いじめ自殺事件で驚いた教育長の一言 そして教育者と司法は今まで何をやってきたのか(Everyone says I love you !)より。
これまた、うなずけるのではあるが、果たしてその論議だけでいいのか?こういう教育関係者と司法の体質について、学校事故・事件を語る会を創立時からサポートされてきた先輩弁護士がこういうことをおっしゃっています。
私が思うに
1 これまでの長い歴史において、教育委員会によって、いじめやこれに関連する
事実が隠蔽されてきたこと。
2 その結果、学校・教育委員会がいじめや自殺問題に正面から取り組まなかった
ことによって、今日の事態がもたらされたこと。
加害者にいじめられた者の死以上の苦しみが伝わらず、その責任の自覚を促すという
教育が一切されなかったこと。教師もいじめに加わっているという認識も作られなかった。
3 以上によって、被害者側は、事態の真相を知らされず、事実を歪められ、謝罪もされず
二重三重の苦しみを味わってきたこと。
モンスターこそは学校、教育委員会である。
4 長年遺族らは司法的救済からも排除されてきたこと。公の統計上いじめ自殺が学校現場
では無いに等しい状態にある。日本の裁判所が、教育委員会の対応を是認し現状を肯定し
てきたもので、司法の 責任は重大である。
5 長年にわたっていじめ及び自殺を無かったことにされた重大な弊害であり、教育委員会は
過去に対し重大な責任を負わなければならない。
日本の教育の根源が問われています。
まさに、日本の教育の根源が問われている今回の事態。7月14日になって、大津市教委が、自殺の原因とされるいじめについての正式な報告書を、遺族から損害賠償請求訴訟を起こされていることなどを理由に、現在も県教委や文部科学省に出していないことがわかりました。
それこそ、 「モンスターこそは学校、教育委員会である」を地でいっています。
以下のような、もっと根源的な、学校そもそも論、教育そもそも論に立ち返って議論すること抜きに、学校と教育委員会の責任追及だけでは問題の本質を捉えこれを国民的な力で克服することは難しいように思う。
そこで、本田宏医師(済生会栗橋病院院長補佐)はい亜kのように指摘している。
■フジテレビ、コンパス「いじめ自殺をなくすために何ができる」に私見を述べました。
本来教育は、この世に生を受けた人間の個々の才能を伸ばし活かして、職をえて社会貢献をしながら充実した人生をおくることができるように教え育むこと。
しかし日本では明治維新以降、公教育は国家の統治と殖産興業・富国強兵の目的で機能してきた。人間の「ごく一部の能力である偏差値」で国民を選別、偏差値教育の究極の勝者が高級官僚となって国民を支配し、敗者はお上に反抗せずに従順に生きるように育てられてきた。まさにクレプトクラシー(盗賊・収奪政治)を支える教育となっている。
そのため現在の日本社会では大人社会の「いじめ」が放置されている。①国民の多くが反対しても消費税増税断行・原発再稼働、②官僚主導政治打破を唱えると証拠ねつ造までされてバッシング、③最低賃金が生活保護受給額より低く、世界でも高い貧困度や自殺大国放置、④子育て支援等を「ばらまき」と揶揄する風潮、⑤医療費だけでなくGDP当たり教育予算も先進国最低クラスで貧しい家庭の子弟が高等教育を受ける機会少なく貧困が世代間で伝わっていく現実・・・・・等々。
「その社会の質は、最も弱き人がどう扱われるかによって決定される」、前ドイツ連邦副議長のアイティェ・フォルマー氏の言葉だ。子供は大人社会をよく観察し知っている。大人が自身のいじめ社会を容認したままで、子供社会のいじめを減少させることは困難。
さらに、内田樹先生は、いじめは社会と、学校・教育の「成果」だ、必然的帰結だ、そんな社会と学校のあり方でいいのか、とより厳しいく根源的な問いを突きつけている。
学校や教育委員会をたたけば、われわれ大人や社会は免罪されるのか!・・・そう聞こえる。
以下二つの論考をそのまま添付しておく。
■いじめについて
■いじめについての続きある媒体から、大津市のいじめについてコメントを求められた。
書いたけれど長くなったので、たぶん半分くらいに切られてしまうだろう。
以下にオリジナルヴァージョンを録しておく。
今回の事件はさまざまな意味で学校教育の解体的危機の徴候だと思います。
それは学校と教育委員会が学校教育をコントロールできていないということではなく、「コントロールする」ということが自己目的化して、学校が「子供の市民的成熟を支援する」ための次世代育成のためのものだということをみんなが忘れているということです。
私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。
子供たちがお互いの成長を相互に支援しあうというマインドをもつことを、学校教育はもう求めていません。むしろ、子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。
であれば、子供たちにとって級友たちは潜在的には「敵」です。同学齢集団の中での相対的な優劣が、成績評価でも、進学でも、就職でも、すべての競争にかかわってくるわけですから。
だから、子供たちが学校において、級友たちの成熟や能力の開花を阻害するようにふるまうのは実はきわめて合理的なことなのです。
周囲の子供たちが無能であり、無気力であり、学習意欲もない状態であることは、相対的な優劣を競う限り、自分にとっては「よいこと」だからです。
そのために、いまの子供たちはさまざまな工夫を凝らしています。「いじめ」もそこから導き出された当然の事態です。
「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に、「いじめることはよいことだ」というイデオロギーがすでに学校に入り込んでいるから起きているのです。
生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して、排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは、現在の日本の組織の雇用においてはすでに常態です。
「生産性の低いもの、採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。
そういう社会環境の中で、「いじめ」は発生し、増殖しています。
教委が今回の「いじめ」を必死で隠蔽しようとしたのは、彼らもまた「業務を適切に履行していない」がゆえに、処罰の対象となり、メディアや政治家からの「いじめ」のターゲットになることを恐れたからです。失態のあったものは「いじめ」を受けて当然だと信じていたからこそ、教委は「いじめ」を隠蔽した。自分たちが「いじめ」の標的になることを恐れたからです。でも、隠蔽できなかった。
ですから、これからあと、メディアと政治家と市民たちから、大津市の教員たちと教委は集中攻撃を受けることでしょう。でも、そのような「できのわるいもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化していることにはもうすこし不安を抱くべきでしょう。
私はだから学校や教委を免罪せよと言っているわけではありません。責任は追及されなければならない。でも、その責任追及が峻厳であればあるほど、仕事ができない人間は罰を受けて当然だという気分が横溢するほど、学校はますます暴力的で攻撃的な場になり、子供たちを市民的成熟に導くという本来の目的からますます逸脱してゆくだろうという陰鬱な見通しを語っているだけです。
ある媒体で、「いじめ」についてコメントした。それは昨日のブログに書いた通り。
それについて追加質問が来たので、これも追記として書き留めておく。
Q: 学校という場は社会の雰囲気とは切り離されたものではなく、一定程度の影響を受けていると思います。現実に、リストラが激しくなる一方ですし、1分1秒ごとに自己成長を求められる息苦しい世界になりました。この状況にあって、学校だけを過度な競争社会から切り離してある種のユートピアにすることは可能なのか、それとも競争を是とする今の社会を根底から変えない限り、社会に蔓延するいじめ体質はなくならないのか。この点はどう思われるでしょうか。
A: 学校は本来は苛烈な実社会から「子供を守る」ことを本務とするものです。それは学校というものの歴史的発生から明らかだと思います。
ヨーロッパで近代の学校教育を担った主体のひとつは、イエズス会ですけれど、それは「親の暴力から子供を守る」ためでした。当時のヨーロッパで子供たちは親の所有物とみなされており、幼年期から過酷な労働を強いられ、恣意的な暴力にさらされておりました。イエズス会は「神の前での人間の平等」という原理に基づいて、「親には子供を殺す権利はない」としたのです。
学校の歴史的使命は、何よりもまず「子供を大人たちの暴力から守る」ことでした。それは今も変わりません。
子供を幼児期から実社会の剥き出しのエゴイズムの中に投じると、どのように悲惨な結果を生じるかは、マルクスの『資本論』の中の19世紀イギリスの児童労働についてのレポートを読むとよくわかります。
子供を心身ともに健全に育て、強者からの暴力や収奪から自分を守ることができるだけの力をつけさせるためには、彼らを一時的に世俗から切り離し、一種の「温室」に隔離することが必要だったのです。
学校に弱肉強食の競争原理を持ち込んで、「子供の頃から実社会の現実を学ばせた方がいい」としたりげに言う人々は、その考えが学校教育の本質の一部を否定しているということを自覚していません。
質問に対するお答えは、ですから「学校に競争原理を導入すべきではない」というものです。最優先するのは、「子供を暴力と収奪から守る」ということです。
「いじめ」は学校に滲入してきた「外の原理」です。
学校で子供がまず学ぶべきことは、相互支援と共生の原理です。
でも、今学校では、何よりもまずその原理を教えていると胸を張って言える教師が何人いるでしょう。
「きれいごとを言うな。社会はそんな甘いものじゃない」と言う人がいるかも知れません。その人には、毎年200人の子供が学校でのことを苦にして自殺しているという事実を「甘い」と言えるかどうか、本気で考えて欲しいと思います。
Q:また、学校の役割が市民的成熟を支援するための組織である、よき市民を生み出すための組織であるという点については全面的にその通りだと思います。ただ、戦後の教育を見た時、そういった市民的成熟の培地だった期間が本当にあったのか、と考えると、よく分からない面があります。私自身、昭和50年代後半~平成初期にかけて学生生活を送っているので、そう感じているだけかもしれませんが・・・。学校や教育委員会は次世代育成という重大な役割をなぜ忘れたのでしょうか。
A:学校が次世代の成熟した市民を育成するための場であるということを人々が忘れたのは、戦後67年日本が例外的に豊かで平和な時代を享受できたせいです。
豊かで平和な時代が続けば、社会の成員たちは共同体を維持するために身銭を切るという仕事を免ぜられます。そういう公共的な仕事は税金を払っておけば行政がやってくれる。個人はただ自己利益の追求と、「自分探し」とか自己実現とかいうことに専念していればいい。
だから、日本から「大人」がいなくなったのは、平和のコストだと私は思っています。
でも、あまりに長く続いた平和と繁栄のせいで、ついに日本社会から「大人」らしい大人がほとんどいなくなってしまいました。自分のことしか考えない幼児的な市民ばかりになってしまった。
自己利益よりも公共の福利を優先的に配慮する「大人」が一定数いなければ、社会は保ちません。
今の日本のすべての制度劣化は「大人がいなくなった」ためだと私は思っています。
でも、今のような危機的状況が続けば、どこかで誰に言われなくても、「せめて私だけでも大人にならなければならない」と思う若者たちが散発的に出てくるはずです。
それは自分のまわりで「いじめ」が行われたときに、黙って立ち上がって「やめなさい。それは人間として恥ずかしいふるまいだ」と言えるよう若者というかたちで現れるはずです。(そのような若者は年齢がどうであれ、もう「子供」ではありません。それは「青年」と呼ぶべき存在だろうと思います)。
そのような若者たちを支援する体制がいまの学校には存在しませんし、教育行政もそのような若者の育成には一片の関心も持ちません(彼らが欲しがっているのは、「グローバル人材」のような「能力が高くて、賃金の安い、規格化された労働者」だけです)。
子供が大人になることを、この社会では誰も求めていないのです。
そんな社会で、有形無形の無数の抑圧をはじきかえして、「やめなさい。それは人間として恥ずかしいことだ」ときっぱり言えるためには、どれほどの勇気と決断が要るか。
学校の教員や教委を「いじめる」暇があったら、そういう若者たちの登場をどうやったら支援できるのか、私たちはそれについて考えることに限られた資源を投じるべきではないのでしょうか。
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2012.07.16 | | Comments(1) | Trackback(3) | ・教育問題
