NO.25 遊びは、全力。ハンパな根性では遊べないぞ!
朝から晩までこき使われて、好きじゃなかった夏休み。
それでも、必死に遊んだ夏休み。その根性は半端じゃなかった。
種子島では、11時から3時までは、大体田んぼには出なかった。熱すぎて仕事にならない。今時の、熱中症予防と同じだろう。
その間、昼食を済ませ、大人たちは、木陰の涼しいところで、縄をなったり、家のことをしたり、昼寝をしたり・・・。
こどもたちは、チャンス!
裏山に蝉取り、カブトムシやクワガタとりに、川にフナつりに、海に潜りにいったり・・・。野良仕事を手伝う力とは違ったところから、遊ぶぞーっというエネルギーが湧き上がってきたものだ。
島の最南端の水田地帯、その先には原始林の防砂林があり、そのうっそうとしたトンネルを抜けると、太平洋。はるか彼方の水平線は、弧を描き、地球の丸さを見せていた。家から波打ち際まで1キロもなかった。
東側にははるか竹崎(今、ロケット基地があるところ)まで白い砂浜。西側には、すぐ近くに鉄砲伝来の門倉岬にいたる磯。
学校とか町とかが「遊泳禁止区域」なんて野暮なことは言わない。(そんな時代じゃなかったのだろう)
そんなことは、自分たちで判断して決めるものだった。
浜のほうは、遠浅ではなく引き潮が強く、大人から「絶対入ったらいかん!」と教えられていた。どんな悪がきもこれだけは守った。
海の恐ろしさや、自然とかかわる知恵が、共同体の暮らしの中で伝えられていったのだ。
目指すは磯のほう。長瀬、高瀬、・・淵、ひとつひとつ名前がついていて、そこの海の特徴も教えられていた。波の穏やかなところで遊ぶ。大人はいなくてこどもだけで。しかも、小学校低学年だけとか・・・。手ごろな淵で、泳ぎの練習をする。
泳げるようになると、素もぐりで、魚を突いたり、イセエビやトコブシを獲る。
今思えば、なんと危ない。こどもたちだけで、太平洋に。
プールなんて見たことも聞いたこともなかった頃。
しかし、種子島に住んでいた15の春まで、土地のこどもが、海の事故にも川の事故にもあったという話は、一度も聞かなかった。(もっとも、私は中1の頃、一度だけ溺れかけて兄に助けられたことがあるが)
とにかく、誰も外に出ない炎天下、必死になって遊ぶのである。
親は、「3時にどこそこの田んぼに来い」というだけだった。
そして、太陽を観れば大体の時間はわかるので、そこに行き、また仕事である。
夕方になると、こどもたちは早めに家に帰され、家畜の世話やらいろいろ言いつけられる。暗くなる頃母親が帰り、晩飯の頃にはもう、もうへろへろで、上のまぶたと下のまぶたが、くっつき始める。
その前に、蚊にさされながら、上がり框ではいつくばって寝てしまうこともしばしば・・・。
そんな毎日が繰り返されていた夏休み。
「遊びをせんとや、生まれけん・・・」
遊びはこどもの仕事とはいえ、思えばすさましいもんだ。山に川に海に、遊び方は変わっていったが、あのエネルギーはどこから出てきたのだろうか。もし、野良仕事もなく、十分な時間があったら、あれだけの執念を燃やして、遊んだろうか?
あの暮らしが、あの少年時代があったから、あの夏休みがあったから今の自分がある。
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2007.08.18 | | Comments(0) | Trackback(0) | ・自画像・自分史断片
